Run-D.M.C.のデビュー
ジェイソン・ミゼル(ジャム・マスター・ジェイ)、ジョゼフ・シモンズ(Run)、ダリル・マクダニエルズ(D.M.C.)
レコードデビューにあたり、ジャム・マスター・ジェイの「私服」をグループのアイコンに決定
1983年3月27日
Run-D.M.C.はファースト・アルバム『Run-D.M.C.』をリリース
そこからシングル・カットした『It’s Like That』
Unemployment at a record highs
People coming, people going, people born to die
Don’t ask me, because I don’t know why
But it’s like that, and that’s the way it is
『It’s Like That』のLyric
It’s Like That.「そんなもんさ」 That’s the way it is.「それが現実だ」
ストリートウェアでステージに上がった初めてのラップグループ
1980年初頭までのラッパーのステージ衣装は「何でもあり」で『過剰装飾』状態(各自が模索していたのでしょう)
ニューヨークのアンダーグラウンド界隈ではBボーイ&Bガールと彼ら&彼女らに憧れたキッズ達などの間でスポーツブランド『adidas』『puma』がストリートファッションのアイテムとして定着し始めていた
Run-D.M.C.は
【『adidas』のトラックスーツとSUPERSTARそしてカンゴール・ハット】
でステージに登場
Run-D.M.C.の登場によって、そこまでのヒップホップ(ラップ)は突如として旧式スタイル『オールド・スクール・ヒップホップ』というジャンルになります
ヒップホップの黄金時代『ニュー・スクール』は一般的に「Run-D.M.C.登場以降~90年代中盤」とされています
その後のヒップホップのほとんどが、このRun-D.M.C.の「様式」を模倣していきます
ヒップホップ・R&Bの専門レコード・レーベル『Def Jam Recordings』
1984年
ラッセル・シモンズ(Run-D.M.C.ジョゼフ・シモンズの兄)とリック・ルービンがヒップホップとR&Bの専門レコード・レーベル『Def Jam Recordings』を設立
Def Jamが成し遂げた大きな功績は何といっても
ヒップホップを人種の壁を越え世界中に広めた
ラッセル・シモンズはカーティス・ブロウをプロデュースしていることでも有名
リック・ルービンと次々に中産階級の才能あるラッパーたちを誘い込みます
第1弾アーティスト:当時16歳の LLクールJ
『I need a Beat』でデビュー(LLクールJの由来は「Ladies Love Cool James」の略)
翌年85年には1stアルバム『Radio』をリリースしてプラチナディスク獲得
女性からの人気がめちゃくちゃ高く、最初にラブソングラップ歌ったと言われている
白人ラップ・グループ:ビースティ・ボーイズ
パーカーを着て野球帽を被ってスニーカーを履くストリート・ファッションこの基盤を作ったのが?ビースティ・ボーイズ
アフリカン・アメリカンが独占するヒップホップ・カルチャーで成功を収めた初の白人ラップ・グループ
元々は”ハードコア・パンク・バンド”であった彼らは完全にヒップホップへ完全移行
LLクールJのような「素肌にゴールドチェーンじゃらじゃら」というイメージから「ポロシャツやパーカーでOK」という感じを与えてヒップホップの裾野を広げた
低迷期のJBを救ったヒップホップ
『Mr.Dynamite』『God Father of Soul』『Funky President』
など様々な呼び名で讃えられる
【ジェームス・ブラウン(James Brown)】
1970年代は『ディスコ・ミュージック』全盛期で、このブームに完全に乗り遅れてしまった JB
「出口がまるで見えなかった」と後年インタビューで語っているほど70年代半ば以降は低迷期でした
1980年映画『ブルース・ブラザース』に出演
この映画の大ヒットでR&Bブームが起こり、JBは復活に向けて活動を開始
1984年
アフリカ・バンバータやってくれました!
Unity – James Brown & Afrika Bambaataa
これでJBは完全復活
1985年
映画『『ロッキー4/炎の友情(Rocky IV)』に出演
1986年
『Living In America』が久々のヒット
世界で最もサンプリングされたミュージシャンは ジェームス・ブラウン
『ファンク・ミュージック』が『ブレイクビーツ』の発明に繋がり【ヒップホップ】へ昇華
JBは【ヒップホップの立役者】で彼が存在していなかったら【ヒップホップ】も存在していなかったかもしれません
JBへの「リスペクト精神」:アフリカ・バンバータのプロデュース力 流石です!
『Funky Drummer』を知らないB-Boy B-Girlはモグリです(笑)
低迷期のロックバンドを救ったヒップホップ
1970年代半ばに絶頂期を迎えていたエアロスミス
70年代末からドラッグなどの影響でバンドが崩壊して10年近い低迷期を過ごしていました
1979年 ギターリスト ジョー・ペリー脱退
1981年 ギターリスト ブラッド・ウィットフォードも脱退
1984年 エアロスミスは オリジナル・メンバーに戻って8thアルバム『ダン・ウィズ・ミラーズ』をリリース(ヒットせず、、、)
80年代前半には 忘れられたロックバンドに
1975年リリースのエアロスミス3rdアルバム『闇夜のヘヴィ・ロック(Toys in the Attic)』収録曲
♬Walk This Way♬は『ブロック・パーティー』の定番曲
【Run-D.M.C.】は♬Walk This Way♬のリフをサンプルして独自の曲を作ろうと思っていた矢先に
Def jamのリック・ルービンから
「♬Walk This Way♬のオリジナル歌詞と同じリリックでカバーをしたら面白いんじゃないか?」
と提案されます
「いやいや、さすがにロックとラップの融合みたいなのやりすぎだよ!」
と最初は難色を示した【Run-D.M.C.】でしたが
エアロスミスの2人(スティーヴン・タイラーとジョー・ペリー)にもレコーディングに参加してもらうことになりました
(【Run-D.M.C.】はエアロスミスのことを詳しくは知らなかったそうです)
1986年
結果的に『ロックとヒップホップを初めて融合させた歴史的な共演』としてなり全米4位の大ヒット
MTVでこのMVが取り上げられたことで、ヒップホップ・ファンにエアロスミスが知れ、ロック・ファンにヒップホップが知れ渡ることになりました
そしてこれをキッカケにエアロスミスの奇跡の復活劇が始まりました
MTVスタート
1981年8月1日 ケーブルテレビの音楽専門チャンネル【MTV】が開設されます
MTVはロックを中心としたポピュラー音楽の重要なプロモーターで、アメリカの大衆文化の推進力として圧倒的な影響力がありました
1988年9月
伝説のヒップホップ専門番組『Yo! MTV Raps』がFab 5 Freddy(*)をホストに迎えてスタート
ヒップホップシーンの形成に大きな役割を担います
(*)Fab 5 Freddy(ファブ・ファイヴ・フレディ)
ヒップホップ・カルチャーのオリジネイターで、もとはグラフィック・ライターでファインアート方面からヒップホップ・カルチャーを知らしめることに尽力
おじさん世代に伝えたいこと
1970年代~1980年代にかけて音楽業界はロック中心で、24時間ロックなどのポピュラーのMVを流す音楽専用チャンネル【MTV】の影響力は絶大でした
Run-D.M.C.やビースティーボーイズはロック・テイストを取り入れ、ストリート・ファッションに身を包むことで、ヒップホップのファン以外を取り込むことに成功しました
ロック・ミュージシャンとのコラボという戦略はヒップホップ全体の認知度を高めました
飛躍の秘訣は世の中をトレンドをキャッチして『ジャンルを超えた組み合わせ』
音楽に限らず「何かを真似て学ぶこと」は『創作の意欲やスキルを高めるために重要』であるという考え方があります
文化の発展は『これまでにないゼロから生み出した場合』にのみ起こるわけではありません
過去の著作物から学んだり利用したりすることで発展していくという場合の方が多いでしょう
著作権者の利益を守るためには一定の条件は必要ですが、「著作権」をガチガチに保護して”がんじがらめ”にしてしまった結果として文化の発展の邪魔をしてしまうことも考えられます
あらゆるビジネスシーンでも同じことが言えます
異文化交流において重要なことは“違いを認めること”です
自分たちとは違う文化が存在することを認め理解することが、異文化交流において大切です
「そんな文化は信じられない」「最近の若者文化はわからん」と思っては他文化の人々とお互いを深く理解し合うことは難しいでしょう
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