イーストコースト vs ウエストコースト
ヒップホップ東西抗争
アメリカのヒップホップ・シーンは取り返しがつかない事態に発展していきました
アトランタ発信のヒップホップ
クリス・クロス(Kris Kross)
クリス“マック・ダディ”ケリー(Chris “Mack Daddy” Kelly)とクリス“ダディ・マック”スミス(Chris “Daddy Mack” Smith)のティーンエイジ・ラップデュオ
『Jump』が全米シングル・チャート8週間1位を記録
TLC(ティーエルシー)
シンガーのT-ボズ(ティオンヌ・ワトキンス)、チリ(ロゾンダ・トーマス)、そしてラッパーのレフト・アイ(リサ・ロペス)の3人で結成されたTLC
1992年
ラフェイス・レコードと契約
シングル「エイント・2・プラウド・2・ベッグ」でデビュー
2ndシングル「ベイビー・ベイビー・ベイビー」が全米シングルチャート2位R&Bシングルチャート1位
同年にリリースされたデビュー・アルバム
『エイント・2・プラウド・2・ベッグ(Oooooohhh…On The TLC Tip)』
全米で500万枚という大ヒット
ダンジョン・ファミリー(Dungeon Family)
リコ・ウェイド、レイ・マーレイ、そしてスリーピー・ブラウンの3人を中心とする「オーガナイズド・ノイズ(Organized Noize)」が母体であるプロデュース・チーム
「アウトキャスト(Outkast)」と「グッディ・モブ(Goodie Mob)」の2大サウス・ヒップホップ・グループをプロデュース
Outkast – Southernplayalisticadillacmuzik
Goodie Mob – Cell Therapy
1995年
東西抗争の始まりとなった「The Source Hip-Hop Music Awards」
最優秀新人賞を獲得したアウトキャスト
ステージに上がった時にブーイングが起こったこともあり受賞スピーチで言い放ちます
「俺たちは飽き飽きしている。視野の狭いやつらよ。誰も俺たちのデモテープを聴かないみたいだけど、サウスにも言いたいことあるんだ!」
このスピーチでアトランタなどのサウス・ヒップホップ・シーンも注目を浴びることになります
アトランタがヒップホップのメインストリームになった理由
アトランタはニューヨークタイムズ紙から「ヒップホップの重力の中心地」
ニュースサイトのデイリービーストからは「アメリカ文化の新しい首都」と評されています
アメリカの音楽業界はジャンルを問わず中心地は、ニューヨークとロサンゼルス
前述の1995年「The Source Hip-Hop Music Awards」でアウトキャストが新人賞を受賞した際には、予想外のアーティストの受賞にニューヨークのファンからはブーイングが起きます
アトランタという田舎都市(ニューヨークにとって)発祥の音楽は暖かく迎え入れてもらえません
アトランタのミュージシャン・プロデューサーたちは、ヒットチャートの上位に食い込む音楽を創り続けて、独自のリズムとフロウを持つまったく新しいスタイルのラップやヒップホップを創造していきます
アトランタには多くのレコーディングスタジオ・ライブハウスがあり、ベテランから新人まで出演するフェスティバルも多く開催されています
そしてラッパー同士、お互いを手厚くサポートすることも特徴の一つです
ラジオヒットを作るアーティストが、アンダーグラウンドで注目を集めるアーティストとコラボをする
こんなコミュニティによって、新しい才能が見つかる場所としてアトランタが注目を浴びるようになっていったんです
ヒップホップ新時代の幕が開けです
「Southwest Atlanta, too strong」の略語である
「The S.W.A.T.S」
という言葉が使用されるようにまでなります
東西のディスりあい
西側:Death Row Records陣営
Tha Dogg Pound Ft. Snoop Doggが
Grandmaster Flashの「New York New York」のリメイクでディスる
Tha Dogg Pound Ft. Snoop Dogg – New York, New York(1995)
↓ ↓(リメイク元)↓ ↓
東側:Bad Boy Records陣営
獄中で出会ったクィーンズブリッジ出身
カポン・アンド・ノリエガ(Capone-N-Noreaga)が
アンサー・ソングとして『LA,LA』をリリース
Capone-N-Noreaga – LA, LA (feat. Mobb Deep & Tragedy Khadafi)(1996)
2Pacの保釈金をDeath Row Recordsが肩代わり
デス・ロウ・レコード(Death Row Records)
1991年設立のヒップホップ・レコードレーベル(設立者はシュグ・ナイトとドクター・ドレー)
シュグ・ナイト(Suge Knight、Marion “Suge” Knight)
ストリートギャングのブラッズ出身。敵対レーベルへの暴行やアーティスト殺害事件への関与等、黒い噂は絶えない人物
ヴァニラ・アイスのヒット曲「Ice Ice Baby」の権利をシュグ・ナイトが力ずくで奪ったと噂されている
2Pacの逮捕歴
1993年4月5日
野球のバットで別のラッパーを倒して10日間ミシガン刑務所
1993年10月31日
警察官が嫌がらせを受けていたと感じた黒人運転手を助けるために警官との争いに発展(結果的には告訴は取り下げられた)
1993年11月18日
ニューヨークで性的虐待と同性愛罪と武器犯罪で逮捕
1994年11月10日
映画「Meance II」に出演する予定だったが監督を殴って15日間の刑務所へ
1994年11月30日
2Pacは、ビギー(ノトーリアスB.I.G.)がレコーディングしているタイムズスクエアにあるクワッド・レコーディング・スタジオを訪れ、強盗襲撃事件(頭部に2発、股間に2発、手に1発もの銃弾を被弾)に巻き込まれた
2Pacは一命を取り留めたが、この事件を仕組んだのは?
パフ・ダディ(ショーン“パフィ”コムズ)とビギー(ノトーリアスB.I.G.)のBad Boy Records陣営と思い込んでしまった
1995年2月14日
クリントン矯正施設で9ヶ月間働くことに(1993年11月18日の件)
シュグ・ナイトが2Pacの保釈金を肩代わり
1995年10月
マリオン・”シュグ”・ナイト(Death Row Records)の申し出を受け入れた2Pacは獄中で契約
【条件】保釈金140万ドルを支払う代わりにアルバム3枚をリリースすること
2Pacは8ヶ月の刑務所生活から解放された
2Pacは10月13日から2週間スタジオにこもってレコーディング
2Pac – California Love feat. Dr. Dre (Dirty)
出所後初の復帰作アルバムからの先行シングル
アルバム『All Eyez On Me/オール・アイズ・オン・ミー』をリリース
1996年2月13日
ヒップホップ史上初の2枚組アルバム『All Eyez On Me/オール・アイズ・オン・ミー』をリリース
Hit ‘Em Up (Dirty)
ニューヨークの特定のラッパーをディスる曲をリリース
ビギーの楽曲『Who Shot Ya』のアンサー・ソングとも言われている
悪名高きシュグ・ナイト
2Pacの苦闘の時代からずっと彼を応援し続けてきた多くの人々は
「2Pacのデス・ロウへの移籍は終末への第一歩だった」と語っている
取り返しがつかない事態に
2Pac殺害される
1996年9月7日
ラスヴェガスで行われたマイク・タイソンの試合観戦後、シュグ・ナイトが運転する車に同乗していた2Pac
横付けされたキャデラックに乗る何者かが発砲した銃弾が2Pacの胸と腰、右手、太ももに命中
2Pacはすぐに病院へ運ばれて緊急手術を受けたが
9月13日午後4時3分に息を引き取る(享年25歳)
運転席にいたシュグ・ナイトは破片で頭にかすり傷を負っただけ
今だに犯人は捕まっていない
ノトーリアス・B.I.G.殺害される
1997年3月8日
ビギーことノトーリアス・B.I.G.1997年3月25日にリリースされるセカンド・アルバム『Life After Death(1997年3月25日リリース)』のプロモーションでロスを訪れて、プレゼンターとして「ソウル・トレイン・ミュージック・アワード」に出席
1997年3月9日0時30分頃
何者かが乗るシボレー・インパラが横付けされ、ビギーは4発被弾
病院へ運ばれたが1時15分に死亡が確認された(享年24歳)
犯人の似顔絵が公開されたが逮捕に至っていない
ギャングスタラップ時代の終焉
東西のスターである 2Pac ビギー の早すぎる死
全米が悲しみに包まれます
シュグ・ナイトは様々な罪で投獄され、ドクター・ドレー、スヌープ・ドックもDeath Row Recordsから抜けることに
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