はじめに
現在の日本では世代を超えて、ヒップホップ(ラップ)・R&B・ゴスペル・ジャズ・ブルースといった黒人をルーツとする音楽、そして黒人スタイルのファッションや髪型が愛され、街中に溢れています
そんな若者に「なぜ?」と問うと「カッコいいから」「ノリがいいから」という回答が返ってきて、ゴスペルを楽しむ中年層に「なぜ?」と問うと「ストレス発散」「楽しい」といった回答が返ってくる状況です
果たして「黒人ルーツの音楽」は楽しい音楽なのでしょうか?
アメリカという国は『移民によってできた国』『多様な民族が溶け合って生きている国』『異文化の融合や統合に特徴を持つ国』そして『白人優越=黒人蔑視を根底に持つ国』
アメリカのルーツ・ミュージックをふりかえると、黒人が始めたものを白人が模倣し、いっそう洗練させて大衆にうけるものにしたという現象をくりかえしています
引用:ちくま新書『はじめてのアメリカ音楽史』
- 自らのおかれた理不尽な境遇を歌に託したのが『ブルース』
- 自らおかれた理不尽な境遇を演奏で表現したのが『ジャズ』
- 「見えない教会」での黒人霊歌が奴隷解放で『希望の歌』として進化した『ゴスペル』
『ブルース』『ジャズ』『ゴスペル』といったアメリカのルーツ・ミュージックは「奴隷時代」~「人種差別」という厳しい環境の中から創造されてきた音楽です
『ヒップホップ』が主流となった今の時代でも「Black Lives Matter」運動が展開されているように『差別』を撤廃するために多くの政策が実行され、法の下では「差別が存在しない」時代に生まれ育った現代人にも『差別意識』が存在しているの事実でから、最低限の歴史を正しく理解していくことが必要と考えています
そこで、現代人の生活に入り込んでいる「African American Music(黒人音楽)」を題材にして歴史・社会問題などを「語り継ぐ」ことによって『ダイバーシティ』の理解が深められるのではないかと考えました
6月19日「奴隷解放の日」をアメリカの休日に
2021年6月:アメリカの連邦下院・上院で「奴隷解放の日」として連邦政府の法定休日とすることを賛成多数で可決してバイデン大統領が署名して正式に決定
祝日名は「ジューンティーンス(Juneteent)」
1863年1月1日
南北戦争中に、リンカーン大統領が『奴隷解放宣言』
【1865年4月14日】
リンカーン大統領暗殺事件(翌15日死亡)
アンドリュー・ジョンソンが第17代大統領に就任
【1865年6月19日】
最後まで残されていたテキサス州で『奴隷解放』
【1865年12月】
『奴隷解放』が憲法修正第13条発効で確定
【1866年】
憲法修正第14条(施行は1868年)で初めて公民権を全アメリカ市民に与えられ、解放奴隷黒人事務局(Freedmen’s Bureau )が設立
【1870年】
憲法修正第15条で『黒人投票権』が正式に認められ、連邦議会や州議会での選挙権を行使し黒人が議員となることも始まっていった
奴隷解放は何を生み出したのか?
奴隷解放によって法的には、黒人は人格と自由を獲得したが、その後は『差別問題』で苦しむこととなっていった
奴隷時代の「見えない教会」は徐々に「見える教会」となっていき、魂の救済だけでなく、相互扶助と教育をも目的とする自分たちの教会(黒人教会)を持ちたいと思うようになっていった(南部の黒人の多くは「パブテスト派」「メソジスト派」を選んだ)
ニューオーリンズにおいて、ヨーロッパ音楽と黒人独特のリズム感と出会い多民族の融合によって新しい音楽(ジャズ)が創造されていった
ニューオーリンズ(New Orleans)の歴史
「ニューオーリンズ」には『史上最大の奴隷市場』があった場所です
あらゆる人種の人々がいて【ニグロ・スピリチュアル】【カリブ海の島々の陽気な踊り】【スペインの民謡】【フランスのダンス音楽】【イギリスのマーチや賛美歌】が混在していた街でした
ニューオーリンズの黒人法は早い時期から、他の南部都市と比べると黒人奴隷に「自由」を与えていて、諸権利を明確にしていました(日曜日と宗教上の祝日には強制労働の免除など)
ニューオーリンズの歴史を簡単に振り返ってみましょう
【1718年】
フランス人によって開拓され「ラ・ヌーヴェル・オルレアン」として設立されました(当時のフランス王ルイ15世の摂政であったオルレアン公フィリップ2世の「新しい領土」の意味)
【1722年】
フランス領ルイジアナの首府となる
【1763年】
パリ条約によってスペイン領となる
【1783年】
パリ条約でアメリカ合衆国独立が承認された
【1801年】
ナポレオン皇帝がルイジアナをフランスに返還させる
【1803年】
ルイジアナ州は、アメリカ合衆国第三代大統領トーマス・ジェファーソンが当時1500万ドルでフランスから購入してアメリカ合衆国18番目の州となりニューオリンズもアメリカの領土に
【1849年】
ルイジアナ州の州都はバトンルージュ市に移る
【1865年】
南北戦争終結で奴隷解放
コンゴ・スクウェア (Congo Square)(現在:ルイ・アームストロング公園)
当初は「黒人の広場 (Place de Negroes)」と呼ばれ、黒人たちがここに集まり、青空市場を開き打楽器を鳴らしてダンスに興じていた場所
ここで展開されたアフリカン・ビートとダンスは話題を呼び、米国各地から観光客が訪れるようになりました(音楽とダンスの習慣も徐々に下火になった南北戦争が始まった頃には行われなくなりました)
南北戦争終結後は、コンゴ・スクウェアでクレオールが中心となったブラスバンドのコンサートを開催するようになりました(コンゴ・スクウェアこそが『ジャズの発祥地』という説もあります)
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は1877年から10年ほどニューオーリンズで暮らしました。
クレオール(Creool)の存在
フランス人・スペイン人とアフリカ人やネイティブ・アメリカンを先祖に持つルイジアナ買収以前にルイジアナで生まれた人々とその子孫が【クレオール】と呼ばれる人々
この【クレオール】は、奴隷解放までは白人階層の各家庭の家族として、黒人奴隷と比べるとある意味特権的な生活をしていました。ニューオーリンズ市民として教育を受けることも 商売することもできて クラシックのオーケストラの楽団員や音楽教師といった人も存在していたのですが、、、
1876年:ジム・クロウ法(1964年まで存続)成立によって【クレオール】の身分は急落
このジム・クロウ法には、一滴でも有色人種の血が流れているのであれば有色人種としてみなすという「一滴規定(One-drop rule)」が盛り込まれていたことによって
1894年:【クレオール】を黒人と同じく処遇するという法案が成立
【クレオール】は、公職から追放され、家業を奪われ、カトリック教会から登録が抹消されて街の中心部からも追い出されるようになりました
南軍の軍楽隊の楽器
南北戦争に負けた南軍の軍楽隊の楽器が、安い値段で売られるようになって、貧しい黒人でも管楽器など手に入れる事ができるようになります
黒人もクレオールも何か仕事をしてお金を稼いでいかないと生活できないので、手に入れた楽器でブラスバンドを始めましたりしました
西欧音楽の素養があった【クレオール】
楽譜も読めないが独自のフィーリングとリズム感を持っている黒人
が交じり合って独特の音楽表現が生まれていきました
この【クレオール】の存在は、ジャズという音楽への発展に大きく貢献したと考えます
『ストーリーヴィル』地区設定
【1897年~1917年】
売春ができる地域を制限することによって当局の管理、監視をしやすくする目的で『ストーリーヴィル』地区設定された
アメリカ政府公認の娼館がある唯一の歓楽都市『ストーリーヴィル』では、奴隷解放によって仕事を求めた黒人たちやクレオールが、ダンスホールや酒場などのBGMとして歌ったり、楽器演奏をして生活していました
ラグタイム
『ラグタイム』は、1890年代の中ごろ、ミズーリ州シダリアおよびセントルイスのクラブや酒場の黒人ピアノ奏者の間で起こった音楽で、白人の客に受けのいいマーチなどの西洋音楽に黒人独特のノリが加わり、シンコペーションを強調した初の軽音楽(演奏楽器は主にピアノ。その他にバンジョー、マンドリンや管楽器などの小編成バンドがラグタイムを奏でた)
ラグタイムには三大巨頭というのが存在する
- スコット・ジョプリン(Scott Joplin)
- ジェームズ・スコット(James Scott)
- ジョセフ・F・ラム(Joseph Francis Lamb)
【1900年】
白人の音楽出版者:ジョン・スタークがスコット・ジョプリンの作品 ♬メイプル・リーフ・ラグ♬ を発表(『楽譜』にしたジョン・スタークは大成功を収め大きな富を得る)
当時、作曲は楽譜に記され『即興演奏』は許されずに譜面どおりに演奏することが原則でした
ジャズの母体の一つにもなった音楽のひとつです
映画『プリティ・ベイビー(Pretty Baby)』
ストーリーヴィルの一般的な娼館は、一階がバー、賭博場、ダンスホール、待合スペースなどになっていた。そこで黒人ミュージシャンが『ラグタイム』を演奏したり、広いダンスホールがある場合はジャズのビッグ・バンドが演奏し、客は好みの女性を見つけてダンスに興じたのち、価格交渉をして二階の個室に上がるというのが”しきたり”でした
映画『プリティ・ベイビー』のタイトルは、ストーリーヴィルの娼館の雇われピアニストだったジェリー・ロール・モートン(1890─1941)の曲のタイトルからとられています(劇中に登場するピアニストのモデルはモートン)
「Jazz」という言葉の由来には諸説あって定説はない
由来と言われている単語は【性行為の隠語:「jass」】【精液や射精の隠語:「jism」】【尻の意味:「ass」】などがあげられています
最有力説は、ニューオリンズの娼館で 規定の時間をオーバーした客に女主人が
「Jazz it up!(とっとと終わらせな!」
と怒鳴ったのが「ジャズ」の由来だという説もあり
『ジャズは アメリカ・ルイジアナ州の港町、ニューオリンズで1900年頃に誕生した』
という定説になっているのかもしれません
映画『ニューオーリンズ』(1947年)
バンド・リーダーであるルイ・アームストロング(本人役)とビリー・ホリデイ(歌うメイド役)出演している映画『ニューオーリンズ』
この映画の中で ルイ・アームストロングがビッグ・バンドを率いてダンスホールで演奏したり 店の名を大書したトラックの荷台で演奏しながら街を練り歩いて客引きをしているシーンがあります
ジャズはニューオリンズからシカゴへ
1917年に公娼制度が廃止となりストーリーヴィルは寂びれていきます
米連邦政府がストーリーヴィルの閉鎖を強行したのは
第一次世界大戦へのアメリカ参戦によってニューオリンズに海軍の基地が作られたこと
だったというのが表向きも理由ですが
売春宿の上顧客だった陸海軍兵士の間に性病が蔓延することを恐れたためでした
職を失ったジャズ・ミュージシャンが手っ取り早く着けた仕事は
ミシシッピ川を北上した先にあるシカゴとニューオリンズをつなぐ外輪船で演奏する仕事
働き口を失った多くのジャズ・ミュージシャンは、仕事を求めてシカゴに移ります
その後、1920年の禁酒法の発令で、酒場は非合法の裏の世界として栄えるようになり『アル・カポネ』などのギャングからの恩恵を受けて『ジャズ』は発展していきます
補足
日本では「ブラック・ミュージック」という表現が悪気もなく使われていますが、実はセンシティブな表現なんです
19世紀から20世紀の変わり目には、「ニグロ(Negro)」という言葉は良い印象を持つ言葉であった。一方、白人が使う「二グラ(Nigra)」、特に「二ガー(Nigger)」という言葉は究極の侮辱であると考えられていた。そのような言葉に言及するときには、実際にその言葉を使わずに、「例の n ワード」と言っていた。「二ガー」という言葉は、今日においても、受け入れがたいものであることは言うまでもない。
ちくま新書「はじめてのアメリカ音楽史」
わたしが1950年代に南部で育ったときは、「ブラック(Black)」は侮辱的であり、「ニグロ」「カラード・ピープル(Colored People)」という言い方が好ましいと教えられた。公民権運動の広がりとともに、1960年代のごく短い期間、「アフロ・アメリカン(Afro-American)」という言い方がはやったが、いつの間にか消え、「ブラック」のほうが好まれるようになった。最近では、その言い方よりも、「アフリカ系アメリカ人(African American)」のほうが適切な用語になってきている。
コメント