アメリカ音楽史で考えるダイバーシティ②(1920~1930年代)

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「現代」の始まりは第一次世界大戦からとされています

古い意味での「ヨーロッパ史」は 1917年に終わり そこから「世界史」が始まりました

1917年は大きな意味を持つ年

1917年4月6日第一次世界大戦にアメリカが参戦(1918年11月11日終戦)

この大戦で アメリカは債務国から債権国へ 農業国から工業国へ

世界の工業生産の中心地はイギリスからアメリカへ


ニューオリンズ・ジャズの発祥地である売春街区ストーリーヴィルは連邦政府によって強制的閉鎖へ

職を失った多くの黒人ジャズメンは 軍需景気に沸いていたシカゴなどの北部都市へ移動を余儀なくされました


ニューオーリンズ出身の白人5人組バンド オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド

Livery Stable Blues♬” と ♬Original Dixieland One Step が初のレコード化され、100万枚を売り上げます

これによってジャズという音楽が全米中に広まっていきます

ニューオリンズのローカル音楽のジャズが、シカゴという大都市で多くの白人聴衆を得て「大衆音楽」としての大きな第一歩を踏み出しました

白人によって演奏されたものを『ディキシーランド・ジャズ』

黒人系によって演奏されたものを『ニューオーリンズ・ジャズ』

と呼ばれていて音楽ですら「区別」されていました

歴史に残る「ざる法」だった『禁酒法』は何だったのか?

禁欲や勤勉を尊ぶピューリタン(清教徒)の影響が強かったアメリカでは 南北戦争以前からアルコールに対する根強い反発がありました

✅ 飲酒のせいで健康被害や治安悪化・暴力事件が増えているという批判
✅ アルコールの過剰摂取が家庭生活にも支障を来すと訴える婦人活動
✅ 第1次世界大戦下でビール業界を支配していたドイツ系移民への反発

禁酒運動は各地で高まりを見せていき、1919年1月から1年間の猶予期間を経て

1920年1月17日から全国禁酒法が施行されました

法が禁じたのは【お酒の製造・販売・移動のみ】で 飲酒そのものは禁じられていません

禁酒法により、アメリカのウイスキー産業は壊滅的な打撃を受け、アメリカをマーケットにしていた アイリッシュ&スコッチ・ウイスキー産業(アメリカは重要マーケット)も壊滅的なダメージを受けました

密造や密売そして密輸が横行して 裏社会のギャングが頭角を現すのは当然の流れでしょう

大きな経済的繁栄の時代でもある『狂騒の20年代』は 

「映画」「ファッション」「文学」などの文化が開花し金銭的に豊かになった白人は 娯楽として「ジャズ」「ダンス」を取り入れます

それ故に この時代は『ジャズ・エイジ』と呼ばれることもあります

禁酒法下の「狂騒の20年代(Roaring 20s)」 

ニューオーリンズを離れたジャズアーティストは、シカゴのギャングが経営する『スピーク・イージー(もぐり酒場)』を演奏の拠点として安定的に活動することができるようになりました

禁酒法で「酒を禁じられていたため」白人社会は酒に酔うことが「ファッショナブル?」という感覚になっていって『スピーク・イージー(もぐり酒場)』に毎晩のように出かけるようになったのでしょう

戦争が禁酒法」を生み~「禁酒法」がギャングを生み~ギャングがパトロンとなって『ジャズ』が発展していきます

アル・カポネは黒人ジャズメンを庇護した(シカゴ)

シカゴの人々は、アル・カポネ「影の市長」と呼び、彼の君臨を「パクス・カポネ(カポネによる平和)」と表現していました

イタリア人であるカポネは 多くの白人のように「黒人である」という理由だけで 黒人を差別することはありませんでした

当時のアメリカのヒエラルキーの一番下にいたのが黒人そしてイタリア人~ユダヤ人~アイルランド人などの移民で 

トップにいるが、それ以外のアメリカ人

カポネは同じ社会的弱者として黒人ジャズメンは「仲間」という意識だったのでしょう

自分の配下にあるギャング以外に闇ウイスキーの取り引きをすること許可しなかったのですが

黒人犯罪集団にだけは寛容サウス・サイド(黒人居住区)の多くの黒人はカポネはファンでした

カポネのお気に入りのトランペッターは? 

ルイ・アームストロング

サッチモの愛称で親しまれた彼の芸風は『アンクル トム(白人のご機嫌とり)』的エンターテインメントと揶揄されることもありましたが 少年時代に起こした発砲事件で少年院に入りしたことで コルネットという楽器に出合ったというエピソードもある不良少年だったんです

サッチモ曰く

20年代初期のシカゴでは、みんなミュージシャンには敬意を持って接してくれた。まるで神さまのような感じだった。

<ファッツ・ウォーラー拉致事件>

1926年1月17日 ファッツ・ウォーラーは4人の男たちに取り囲まれ 脇に停めてある黒塗りのリムジンに押し込まれました(ファッツは生きた心地がしなかったでしょう)

ファッツが強引に連行された場所は 宴会場のステージ上のピアノの椅子

その日はカポネの27才の誕生日だったので ファッツを拉致した男たちのボスへのプレゼントだったんです

ジャズを愛するカポネは ウォーラーに極上シャンパンや最高の食事を振舞って演奏を続けさせたそうです(ポケットに入りきれなかったチップはなんと3,000ドルだったと、、、)

当時 黒人ジャズメンは一流クラブで演奏しても お客と同じ席で食事もできず 正面玄関から出入りもできない人種差別の時代でした

アル・カポネ曰く

All I ever did was sell beer and whiskey to our best people. All I ever did was supply a demand that was pretty popular.

私がやったことは、ビールとウイスキーを最高の人々に売っただけだ。私がやったことは、非常に人気のある需要を供給しただけなんだ。

独自の発展を遂げたカンザス・シティのジャズ

ニューオリンズ発祥のジャズとは異なる独自の発展を遂げたカンザス・シティのジャズは、後のモダン・ジャズにもたらした影響を極めて大きいと考えます

「カンザス・シティのスタイルを自覚のないままに作った人物まったく音楽を聴かない男(政治ボスのトム・ペンダーガスト)だった。しかし、彼は悪徳とギャングの支配を奨励しカンザス・シティを取り締まりの緩やかな都市に変えることによって 音楽サービスのためのもうひとつの急成長の市場を作ってしまった」

ロス・ラッセル著書『カンザス・シティ・ジャズ』

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禁酒法(1920年~1933年)下においてカンザス・シティだけは治外法権で、酒場はオールナイト営業行っている全米一の歓楽街として栄えていました

トーマス・ジョゼフ・ペンダーガスト 

トーマス・ジョゼフ・ペンダーガストThomas Joseph Pendergast)という民主党の悪徳政治家が州の黒幕として街を牛耳って自分の都合のいいように法律を変えていたのです

1925年 民主党員として市会議員に選出される

民主党のマシーン(利権や猟官制に基づく集票組織に対するアメリカ合衆国における呼称)のボスとして市政をコントロール(自分の都合のいいように法律を変えていった)

✅ ペンダーガイストの醸造工場から酒を買わないと酒場は開業できない
✅ ペンダーガイストのセメント工場からセメントを使わなければ建物も造れない

1929年の大恐慌が起こってもカンザス・シティの経済が比較的安定していていました

それは ペンダーガストによるビジネス・インフラが築かれていたからです

1930年代初頭 彼が支配していた酒場は数百軒ほどあり 演奏旅行で大陸を横断する楽団が立ち寄り 仕事を求める多くのジャズメンを吸収することになりました

ハリー・S・トルーマン

カンザス・シティの洋品店店主から大統領となった「ただのアメリカ人」:ハリー・S・トルーマン

1922年:ペンダーガストの支援を受けてジャクソン郡の判事に就任

「農業地帯であるジャクソン郡の未来は近代的な道路整備にかかっている」

との確信して道路整備プロジェクトを進めました

この事業のお金は すべてペンダーガストの会社へ流れ カンザス・シティの非合法ビジネス・システムの基盤となっていきます

1934年:ペンダーガストの支援もあって上院議員に当選

ペンダーガストの「自分の力を中央政界に及ぼしたいという野望の一環」だったと思われます

ハリー・S・トルーマンの本当夢は、ピアニストになることでした

1939年 ペンダーガストが脱税の罪で逮捕される

1940年:上院議員に再選(この時にはペンダーガストは失脚していたので独自の選挙戦

軍事費の不正使用に関する「トルーマン委員会」設立

1944年:ルーズベルト大統領下の副大統領に就任

1945年:ルーズベルト大統領急死(1945年4月12日)で大統領に昇格

カンザス・シティのジャズの特徴

カンザス・シティのジャズは ニューオリンズやシカゴのジャズと違っている特徴は

簡単に言えば 『ブルースの歌を楽器で再現化』といったところでしょう

カウント・ベイシー

ベイシーは、バンドのプレーヤーのほとんどが楽譜を読めないことから、短く簡略化されたメロディである『リフ』を活用して頭で覚えただけで演奏できる『ヘッド・アレンジ』を行いました

そして、人間の肉声に近い音を奏でる多くのサックス・プレーヤーを生み出しました

『バド・ジョンソン』『ベン・ウェブスター』『レスター・ヤング』

チャーリー・パーカー

チャーリー・パーカー(バード)は、1920年8月29日にカンザス・シティ郊外で生まれました

バードの才能が開花して世の中に知られるようになるのは、ジャズ・シーンがニューヨークに移ってからになりますが、もし彼がいなかったなら?ジャズという音楽は まったく違ったものになっていたかもしれません

飴と鞭

ギャングがオーナーのクラブでは【投げ銭方式】が採用されていて、その金はジャズメンの取り分となっていました

ジャズメンが演奏が良ければ、お客さんの入りも増えるのでギャングは客相手の営業終了後 

ジャズメンが自由に演奏を続けることは許可していたそうです

これが「ジャムセッション」の始まりでしょう

しかし裏ではジャズメンへの「見せしめ」として【リンチ】が行われていました

カンザスシティ・ジャズの衰退

ペンダーガストの失脚と禁酒法廃止によって、カンザスシティは衰退していきます

1936年10月:カウント・ベイシー・バンドは、カンザス・シティをあとにしてシカゴ経由でニューヨークに進出します

チャーリー・パーカーもニューヨーク定住を決断してアール・ハインズ楽団に加入(ここでディジー・ガレスピーに出会う)

ジャズメンたちはニューヨークへと移っていきます

世界恐慌~禁酒法の終焉

1929年10月24日(暗黙の木曜日) 

ニューヨーク株式取引所で株式が大暴落

以後長期にわたり アメリカだけでなく世界中に不況が拡がっていきました

資本主義各国は 恐慌からの脱出策を模索する中で対立を深めていきます

1933年:禁酒法廃止

米国史上「高貴な実験」と称された『禁酒法』は 様々な矛盾や犠牲を生んで大失敗

教訓として得たモノ>

✅ 人間の基本的欲求を 道徳的な規範で縛ることなどできない

✅ 欲求を法で縛れば その抜け穴を狙った犯罪が増えるだけ

ジャズの主戦場となる当時のニューヨーク

コットン・クラブ

1927年 デューク・エリントンは ニューヨーク・ハーレムの高級ナイトクラブ「コットン・クラブ」と契約(1927年~1931年)します

オーナーは アイルランド系ギャングオウニー・マドゥン

コットン・クラブのお客は全員裕福な白人 演奏・演じるのは黒人

当時のクラブの出し物は 

✅ 黒人への偏見を反映したジャングルの土人や南部農園の黒人描いた寸劇

✅ 露出度の高い衣装で出演する黒人コーラス・ガール

デューク・エリントンは「コットンクラブ」で作曲してレパートリーを増やしながらクラブの演奏がラジオ放送されたおかげでエリントンの名は全米に知れ渡っていきました

デューク・エリントンがツアーに出て不在の時は キャブ・キャロウェイ楽団が代役として出演

ミントンズ・プレイハウス

1938年にテナーサックス奏者ヘンリー・ミントンによってハーレムに設立されたモダン・ジャズの発展において大きな役割を果たしたジャズクラブバー

1940年代初めには、セロニアス・モンク・チャーリー・クリスチャンそしてチャーリー・パーカー・ディジー・ガレスピーといった新しい音楽のイノベーターたちのジャムセッションが行われた

「ワン・オクロック・ジャンプ」

1937年にデッカ・レーベルから発売されたカウント・ベイシー・バンドの「ワン・オクロック・ジャンプ」が大ヒット(大手レコード会社となるMCAに橋渡しをした白人の音楽プロデューサー:ジョン・ハモンド)

まとめ

シカゴ ~ カンザスシティ ~ ニューヨーク

アフリカン・アメリカンをルーツとする音楽『ブルース』『ジャズ』『ゴスペル』は

まず『ジャズ』がポピュラー音楽メジャー・シーンに浮上します

そして、ベニー・グッドマン グレン・ミラーらの白人主体の楽団とともに一大スウィング・ブーム

こんな流れの中で第二次世界大戦に突入していきます

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