『ビ・バップ』革命は、既存の古い音楽様式によって刷り込まれた制限からの逸脱した「表現の自由」を表した大革命
『ビ・バップ』は「スウィング・ミュージック」へのアンチテーゼ
『ビ・バップ』はジャズという狭い範疇だけではなく、白人主導の表社会・裏社会そして人種差別の厳しい現実の闇社会を明らかにしていき黒人意識向上・公民権運動への影響を与えた大革命でした
第二次世界大戦直後のアメリカ
第二次世界大戦を通じてアメリカは大恐慌から抜け出し、1945年実質GDPは1939年と比べて88%増 失業率も労働力の1.2%まで低下しました
大戦中は、ストライキを自粛して戦時動員に従事していた労働者を代表して労働組合が『賃上げ要求』することは自然な流れでしょう
そこで共和党が多数を占めていた議会は 労働運動の拡がりを警戒して
1947年6月23日『タフトハートレー法』制定させます
『タフトハートレー法』:クローズドショップ制の禁止、ストライキの禁止などを内容とし 1935年のワグナー法で認めた労働者の諸権利を大幅に修正
しかし ほとんど効果がなく労働運動は激しさを増していきます
ビ・バップ革命とは?
1930年代から1940年代初めにかけて大ブームになった、大人数構成のビッグバンドで綺麗なメロディーとハーモニーを奏でるスウィング・ミュージック
第二次世界大戦突入とともに急激にスゥイング・ブームは下火になっていきました
スウィングから『ビ・バップ』に変わっていった大きな2つ理由
① 経済的(金銭的)に大人数を雇えなく小人数編成に移行していった
② これまでの楽譜通り演奏するスウィング・ミュージックに不満を抱いたジャズメンは『ミントンズ・プレイハウス』などで自由の象徴であもある即興演奏に没頭していった
一般的な音楽史の『ビ・バップ革命』に関する記述
『ビ・バップ』の誕生は【西洋音楽史上の大革命】
従来で合わないとされていた非和声音(テンション・ノート)も「音楽理論上使える音を全部使ってみよう」という実験精神で 歴史上初めて『即興演奏』の可能性を大幅に解放した大革命なのです
菊地成孔氏は著書『東京大学のアルバート・アイラー—東大ジャズ講義録・歴史編』において、『ビ・バップ』の兆候を「音楽のスポーツ化」と呼んでいます
同じ理論(ルール)を共有して初めて「競争」が成立するのでわけです
『ビ・バップ』という新しいルールによって、ジャズ・アーティストの演奏は「より速く・より複雑」になっていき個人のテクニックを極限まで表現できて競い合う演奏スタイルに変わっていきました
ビ・バップ革命は、黒人ジャズ・アーティストが「芸術音楽」も演奏できるという底力を示し、白人の認識を改めさせる契機となったとも考えられます
今でもジャズの王道である「モダン・ジャズ」の基礎となる革命的な音楽スタイル「ビ・バップ」の創造者と言えば
チャーリー・パーカー(以下「バード」と略す)
1920年8月29日 カンザスシティで生まれ育ったジャズ界の天才・革命児
もし彼がいなかったなら?ジャズという音楽は まったく違ったものになっていたかもしれません
アメリカ海軍との密約「暗黒街計画」
「暗黒街計画」とは?
アメリカ海軍は ニューヨークの埠頭や繁華街での諜報活動には マフィア組織の協力が必要と判断して獄中のラッキー・ルチアーノ(イタリア・シチリア出身:マフィア組織の合理化を試みた近代マフィアの祖・ニューヨークのドン)に協力依頼
1943年のシチリア上陸作戦(「ハスキー作戦」)の際にも協力依頼(この時の密約が「釈放」)
ドイツが降伏してヨーロッパ戦線が終結した直後、ルチアーノは恩赦によって釈放されます(市民権を持たないので1946年2月イタリアへ強制送還)
結果として、コーザノストラ(シチリア・マフィア)とアメリカ・マフィアとユニオン(コルシカ島の犯罪組織)との国際的麻薬交易を復活させる状況を作り出しマフィアの重要産業になっていきました
ルーズベルト大統領は『連合軍勝利のために命を張った』見返りとして、重要な社会問題である『ヘロイン』密輸を黙認したことになります
ビ・バップの悪名高きフィクサー
1949年元旦 NYのジャズ・クラブ『ロイヤル・ルースト(Royal Roost)』からのバードが出演したラジオ生放送がありました
このジャズ・クラブのオーナー兼仕掛人が モーリス・レヴィ―
モーリス・レヴィ―はイタリア系犯罪組織マフィア「コーサ・ノストラ」(ルチアーノ家)管下の(ヴィト・ジェノヴェーゼ)の部下で音楽エンタメ部門を仕切った幹部
バードやデクスター・ゴードンといったスターをブッキングしてラジオとの相乗効果でビバップ・ブームを盛り上げていきます
1949年12月15日 ブロードウェイ52ndストリートにジャズ・クラブ『バードランド(Birdland)』をオープン
司会者:ピー・ウィー・マーケット
毎夜店内から生中継ラジオのDJ:シンフォニー・シド
エヴァ・ガードナー ゲイリー・クーパー マリリン・モンロー マレーネ・ディートリヒなどの著名人が集う世界一のジャズ・クラブになっていきました
モーリス・レヴィ―は、著作権法を逆手に取って「パトリシア・ミュージック」という音楽出版社を設立(バードランドで初演される楽曲の著作権を全て取得)
「アーティストからロイヤルティをだまし取った悪名高い詐欺師」
ビ・バップを演奏のジャズ・クラブの経営母体が『ヘロイン』売買産業なのですから、若きジャズ・ミュージシャン達が『ドラッグ浸り』になったって何も不思議ではないです
『バードランド』から発信されるラジオ番組のテーマソング(1952年以降)
♬Lullaby Of Birdland♬(作曲は盲目ピアニスト:ジョージ・シアリング)
誤った三段論法
「バード(チャーリー・パーカー)はジャズの天才だ。バードはヘロインなしでは生きていけない。ゆえに、ヘロインはジャズの天才になくてはならないものだという三段論法だ」(引用:ハリー・シャピロ著書『ドラッグinジャズ』)
この『三段論法』がジャズメンのドラッグ神話の根拠にもなっています
薬物問題はアメリカ合衆国における移民問題や人種問題の象徴
✅ 阿片は中国人労働者によって使用されていたこと
✅ コカインはアフリカ系黒人労働者によって使用されていたこと
✅ マリファナはメキシコ人の移民労働者によって使用されていたこと
1940年代中期以降 NYが他の都市よりヘロインが入手しやすかった背景には マフィアの存在がありました
「ヘロインはNYのストリートでアスピリンよりずっと手軽に買える」
阿片がトルコなどでモルヒネに加工されて、マルセイユでヘロインに精製して、ニューヨークに密輸されていました
チャーリー・パーカーやビリー・ホリディというジャズのヒーロー&ヒロインが「最高のプレイ」を与えてくれるのは”ヘロイン”のおかげで”ヘロイン”こそが自分の音楽の力を増進させる
こんな間違った考え方も広がっていき、1940年代から50年代のニューヨークのジャズ・アーティストは”ヘロイン”にのめり込んでいったのでしょう
ニューヨークを取り仕切っているマフィアとジャズ・アーティストの関係は『飴と鞭』の奇妙な相互補完関係
ニューヨーク市警は、見せしめ的に黒人が住む地域を取締りの標的にして、麻薬中毒になっていったジャズ・アーティストを薬物所持で摘発し『キャバレー・カード』を剥奪して仕事をできなくしていきます
ニューヨークの『キャバレー・カード』
1926年にニューヨークで制定された法案『キャバレー法』ができた背景は?
黒人と白人が交流することを快く思わない人種差別的な意図 公の場でソーシャルダンスを踊ることに対する宗教的な反発もあったと考えられていて、制定当初は主にハーレムのジャズ・クラブが摘発の対象となっていました(禁酒法時代に大繁盛した『スピーク・イージー(モグリ酒場)』を統括するためにニューヨーク市がひねり出したの苦肉の条例)
そもそもは店の営業許可制度だった
1940年代に労働組合運動が活発となり『キャバレー法』はいつの間にか
従業員の就業許可制度になっていきました
『キャバレー・カード』とは?
調理師やウエイターだけでなく、出演ダンサー・ミュージシャン・コメディアンも『キャバレー・カード』を取得しないと働けない就業許可書(1940年から1967年まで存在)※前科者や麻薬中毒者にカードは支給されません
ニューヨークのアルコール販売局が関わりながら実質的な審査と発行はNY市警(発行手数料は警察年金基金にまわすというシステム)
『キャバレー・カード』を失うと著名ジャズメンでさえもクラブに出演することができません
キャバレー・カードを剥奪された主なジャズ界のスター
1946年:当時主要ジャズ雑誌の人気投票では常に1位だったJ.J.ジョンソンは「注射針」が発見されて逮捕(司法取引に応じて実刑は免れる)キャバレー・カード剥奪される
1947年5月:ビリー・ホリディはフィラデルフィアでヘロイン所持で逮捕され1年間の懲役刑
1951年:チャーリー・パーカーはキャバレー・カードを剥奪される
1951年:セロニアス・モンクは無実でありながらバド・パウエルをかばってキャバレー・カードを剥奪される
✅ 冷戦が深刻になっていく状況で『ジャズ』と『共産主義』を結びつくこと
✅ 黒人の自意識が高まりによって以前よりは率直に発言する傾向が高まること
を政権が恐れたことは容易に想像できます
アメリカ人すべてが人種差別主義者ではありませんが、多くの白人至上主義者と黒人差別論者が存在しているのは事実です
白人至上主義者の中には「奴隷制度廃止は間違いだった」と公然と主張する者もいて、アメリカ社会の根底には『黒人差別を許容する意識が変わることなく』流れ続けています
バードの中毒は何だったのか?
バードは生涯【麻薬】を賞賛することは一度もなかったと言われています
1936年11月:交通事故で約4ヶ月間入院
この交通事故が 麻薬依存症への転機であったと考えられます
サックスを吹くことも出来ずに病院のベットに寝たきりの状態
痛みを和らげるためにモルヒネを処方されていて、退院後も脊柱と肋骨の痛みを和らげるためにヘロインを使わなければならなかったそうです
このことで薬物注射のやり方を覚えバードにとって、当時のカンザスシティならば【麻薬】は簡単に入手できはずです
ダウンビート誌1949年9月9日号に掲載されたマイケル・レヴィンとジョン・S・ウイルソン両氏によるバードへのインタビュー記事(山田チエオ氏に翻訳)
「マリファナだろうが注射だろうが、麻薬をやってとても上手く演奏できていると言うミュージシャンは、明らかに大嘘つきだよ。わたしは飲みすぎると指を動かすことさえ上手く できなくなるし、ましてや、まともな演奏なんかできなくなる。わたしは、麻薬を常習していたころは麻薬をしていないときよりも上手に演奏できていると思っていたのかも知れないが、今レコードを聴き返してみると、そうでは なかったとわかる。頭の回る若い連中は、すばらしいサックスプレーヤーになるには麻薬ですっかりハイになるべきだと言うが、彼らは単に麻薬に夢中になっているだけだよ。そこに真実はない。わたしにはわかっている、 本当だ」
引用:ダウンビート誌1949年9月9日号
バードにとっての中毒の対象は『サックスを吹くという行為』です
しかし残念ながら、天才は禁断症状に苦しみ麻薬注射を繰り返してジャンキーになっていったというのは事実です
『ビ・バップ』革命とは何だったのか?
『ビ・バップ』革命は
バードという一人の天才の感性(音楽観)がジャム・セッションという狭いコミュニティでの競争的な『やりとり』から形作られていった音楽形式です
✅『踊る音楽』⇒『鑑賞する芸術音楽』へのゲーム・チェンジ
✅個人のテクニックを表現して競い合う演奏スタイルへのルール創設
人の行動変容を伴う『イノベーション』です
セロニアス・モンクは「ミントンズ・プレイハウス」のジャム・セッションでバードらと『ビ・バップ』を創造してきた一人で高度なテクニックと音楽理論をマスターしている天才です
モンクの演奏を初めて聴いた人は「ん?」と奇妙な感じをうけるかもしれません。所謂『ジャズ』の流儀とは違っていて「違和感」すら感じるかもしれません
モンクのピアノは、人々が耳慣れしてしまって常識化していた既存の音楽スタイルを打ち壊して解体して「モンク流の新しい秩序」で演奏しました
「コード的規制」「リズムの閉鎖性」「ハーモニクスの限定性」といった従来の概念を全て否定するのではなく、既存の素材を全て廃棄するのでもなく規制などを革新的に意味合いを変化させて 独自の構想で新しい音楽を創造
『絶対的』と思われていた価値に対して「実は絶対的ではないんじゃないの?」と問いかけて新しい価値を創造する
これがモンクが天才たる所以です
モンクは、ピアノの先生から怒られる「指をまっすぐ伸ばした弾き方」をしますが
『自分の一番出したい音を出すこと』が第一であって楽器演奏の規範などの問題ではない
ことを教えてくれます
ビ・バップ革命が問いかけたこと
人には常に「不安」というものが付き纏います
その「不安」を払拭するために何かの拠り所と「安定」を求めてます
そして知らず知らずのうちに『権威』にしがみついて「安易な道」を選びがちです
バード・モンクといった起こした『ビ・バップ革命』が訴えたのは?
既成の『権威』や『秩序』に囚われない【自由な発想】
既成の枠組みに安住することなく 自らの秩序を創造しながら常に自分に対して「問いかけ」を行っていく姿勢
『即興』を磨き上げることによって、人は瞬間的に他者の心に触れることが出来る『直感的理解力』向上につながる
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