今まで誰も挑戦しなかった新しい行動を起こそうとすると、最初は多くの人が冷ややかな目で眺めてバカにします
ところが、その人物を追随する人が現れて、更に追随者が出ていくと今までマイナーだったことが一気にメジャーとなって最後は一大ムーブメントかのように くの人を巻き込む動きが起こっていきます
これが社会運動・リーダーシップが効力を発揮する基本的な流れです
『ハード・バップ』は黒人主導で創造してきた『ジャズ』が「大衆性」と「芸術性」を併せ持つ『鑑賞芸術』として到達点のひとつです
『ハード・バップ』が黒人社会に与えた影響は計り知れません
ブルーノート・レコード
【創 立】1939年
【創立者】アルフレッド・ライオン
【創立地】ニューヨーク
アルフレッド・ライオンの信念
「ブルーノート・レコードはひとえに、妥協のないホット・ジャズやスウィングを世に届けるべく生まれたといえます。正真正銘の音楽的な情感を伝える演奏だけが、本物の表現なのです。時と場合に応じたその重要性が、音楽に伝統や形式、そしてそれを生かし続けるリスナーをもたらすのです。つまりホット・ジャズは表現であり、コミュニケーションであり、社会を映し出す音楽なのです。ブルーノート・レコードは売上や話題ばかりを求めるまやかしのそれとは異なり、ジャズの衝動性を見出すことを目指すレーベルです」。
引用:1939年にブルー・ノートを立ち上げた際のプレス・リリース
「アーティストを理解しないとね。何かを本当に引き出すなら」
という発言している通りアルフレッド・ライオンは、ミュージシャンの自由・想いを尊重して『先鋭的・創造性豊かなな表現』を全力で支援
ブルーノートは、録音前に必ずリハーサルを行って、リハーサルに要した時間のギャラを払っていました
フランシス・ウルフという最強の相棒
フランシス・ウルフは アルフレッド・ライオンの幼なじみ
ブルノート・レコードのエグゼキューティブ・オフィサーで写真家
アルフレッド・ライオンが兵役に就いている間、コモドア・ミュージック・ストアで働き、利益を貯え ライオンが除隊するまでブルーノート・レコードを維持しました
アルフレッド・ライオンが戻ってきてブルーノート・レコードが再開すると、ミュージシャンたちの当時の姿をフランク・ウルフがカメラで撮影
アルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフの関係は『本田宗一郎さんと藤澤武夫さん』『盛田昭夫さんと井深大さん』のような関係だったのではないでしょうか?

ルディ・ヴァン・ゲルダーの歴史に録音技術
ルディ・ヴァン・ゲルダーの本職は検眼技師でしたが、実家のリビングがレコーディングスタジオとして使用できるように作られていたこともあって、1952年頃から「プレスティッジ」「サヴォイ」といったレコード会社の録音を手がける様になっていました
1954年初め、美術家で作曲家そしてバリトンサックス奏者 ギル・メレ の仲介でアルフレッド・ライオンとの接点をもちました
この出会い以降ブルーノート・レコードのほとんどの録音はルディ・ヴァン・ゲルダーが行っています

リード・マイルスのモダンなアートワーク
1954年
リード・マイルスは、アルフレッド・ライオンに自分のデザインを持ち込んで、1956年からレコード・ジャケットのデザインを担当することになります
リード・マイルスはジャズ・ファンではありませんでした。
そこが逆に「強み」となって素晴らしいアートワークを生み出したのかもしれません(音楽性とは直接関係がない視点)
もちろん、フランシス・ウルフの素晴らしい写真があってこそのことだったのですが
リード・マイルスは時には大胆に写真をトリミングするなどして、フランシス・ウルフを怒らせることもあったらしいです(リード・マイルスが自分で撮った写真でアルバム・ジャケットをデザインしたものもあります)
リード・マイルスの報酬はアルバム1枚につき50ドル程度
定職ではないにもかかわらずある土曜日1日で数枚のデザインを制作しなければならなくて、手に負えないときには、友人の若きアンディ・ウォーホルにも手伝ってもらっていました

『分業』と『調整』の確立
1953年から1954年に『ブルーノート・スタイル』と称される『分業』と『調整』の確立され
『創造性・生産性の高い組織』 が出来上がっていきました
調整役 :アルフレッド・ライオン
写 真 :フランシス・ウルフ
デザイン:リード・マイルス
録 音 :ルディ・ヴァン・ゲルダー
演奏以外の重要なクリエイティブ部分が、この強力な布陣によって確立されてハード・バップ興隆の真っ只中で数多くの名盤を生み出していきました
ジャズ・メッセンジャーズ結成前夜
ハード・バップ誕生を高らかに宣言したモダン・ジャズを語る上で絶対に外すことが出来ないライブ・アルバムの最高峰
A Night at Birdland With Art Blakey Quintet (Blue Note1521/1522)
1954年2月21日:バードランドで録音されました
Art Blakey (ds) Clifford Brown(tp) Lou Donaldson(as) Horace Silver(p) Curley Russell(b)
このアルバムは「偶然」から生まれたものではなく、最初から録音を目的としたものでアルフレッド・ライオンが働きかけたものです
当初はアート・ブレーキ―名義ではなく、ブルーノート・オールスターズのライブ録音として企画されたものだったようです
このバードランドでの試みによって、ホレス・シルヴァー・クインテット~初代ジャズ・メッセンジャーズの創立メンバーへ
ブルーノート最初の12インチLPオリジナル録音である『At the Cafe Bohemia Vol.1&Vol.2』リリースされます
ホレス・シルヴァーがソロとしてのキャリアを求めてバンドを離れた後に、アート・ブレイキーがリーダーなり、ホーンをフィーチャーしてポリリズミックなドラミングを行うジャズ・メッセンジャーズのスタイルが、50年代における『ハード・バップ』のフォーマットになりました
マイルス復活
ひたすら禁断症状に耐えるという「コールド・ターキー」という荒療治を行ったマイルス・デイヴィスは、ドラッグから脱却し1954年2月にニューヨークに戻ってきます
1954年4月3日&29日にハード・バップの歴史的名盤『Walkin』を録音
1954年6月29日『Bags’ Groove』を録音
1954年12月24日:伝説になっているマイルスvsモンクの「ケンカ・セッション」(※)が含まれるアルバム『Miles Davis and the Modern Jazz Giants』
ケンカ・セッション(※)
1954年12月24日
プレスティッジ・レーベルの社長ボブ・ワインストックが仕組んだマイルス・デイヴィスとセロニアス・モンクのセッション・アルバム『Miles Davis and The Modern Jazz Giants』録音が行われました
録音に入る前にマイルス・デイヴィスが、先輩のセロニアス・モンクに「自分の即興パートでのピアノのバッキングはやめてくれ」と言ったそうです
そんな中で ♬The Man I Love(take 2)♬ 演奏中に セロニアス・モンクがソロを途中で止めてしまって ベースとドラムのリズムだけしか聴こえなくなります(5:26~5:38 )
そこでマイルス・デイヴィスが突然トランペットを吹き始め、セロニアス・モンクのソロが再開され マイルス・デイヴィスのソロ~ラスト・テーマへという流れていきます
セロニアス・モンクは、演奏前のマイルス・デイヴィスの指示に我慢ならなくて、怒りが噴き出してきてソロを止めてしまったのだが、気を取り直して演奏を再開した
という噂話で広がりました(真偽の程は分かりませんが、妙な緊張感に満ち溢れた演奏は素晴らしい)
1955年3月12日 チャーリー・パーカー逝去
チャーリー・パーカーは、ジャズのパトロンである愛称はニカ【パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター (Pannonica de Koenigswarter)】(※)が住んでいたイーストサイドのスタンホープホテルでTVを観ながら息を引き取ります
検視官はチャーリー・パーカーの年齢を55歳から60歳と推定しました(実際は34歳)
死の数日後から マンハッタンの地下鉄やビルの壁のあちこちに
“BIRD LIVES !”
と多くのファンが追悼の意味の落書きが散見されたそうです
1955年4月2日:カーネギー・ホールでバード追悼コンサート開催
オープニングはレスター・ヤング
【出演者】サラ・ヴォーン ビリー・ホリデイ ダイナ・ワシントン パール・ベイリー ビリー・エクスタイン サミー・デイヴィスJr ヘイゼル・スコット レニー・トリスターノ スタン・ゲッツなど
真夜中から午前4時までという時間帯に行われましたが 2,700人もの観客で埋め尽くされ 外にはあふれた何百人ものファンがいたそうです
バードを評価しなかった音楽出版界も 挙って取り繕ったとも思える感動的な追悼文を掲載しました
しかし残念なことにマスゴミは
イギリスの財閥ロスチャイルド一族である大富豪の白人女性の部屋で、黒人ジャズ・ミュージシャンが死亡したことを 大スキャンダルとして扱います
ハード・バップ・ジャズ・ムーブメントは何を引き起こしたのか?
ハード・バップは、アメリカ文化を代表する音楽の一つとして世界中に新しい音楽の潮流として、文化・音楽・エンターテイメントの世界に多大な影響を与えます。
ロックの前身でもあり、後のヒップホップ・カルチャーやラップ・ミュージックの前身でもあります
ハード・バップは、アフリカ系アメリカ人によって創造され、特にブラック・コミュニティーで人気を博しました
しかし、この音楽は一部の白人にとっては面白くなかったと言われています。
これは、当時のアメリカ社会において、人種や文化的な差異が根深い偏見や差別を生んでいたためです。白人層は、自分たちの文化や音楽を「正当な」ものとして位置づけていたため、他の文化や音楽を非承認的な見方をしていました。
また、ハード・バップは、当時のアメリカ社会において複数の政治的や経済的な論争を反映していたため、白人層にとっては不快な思いを引き起こしました。
ハード・バップは、アフリカ系アメリカ人の人権や平等に対する訴えを強調するものであり、白人層にとっては威厳を損ねるものと感じられたかもしれません。
白人社会におけるアフリカ系アメリカ人に対する差別や偏見の要因
【歴史的な偏見】
アメリカ合衆国の歴史には、奴隷制度や人種隔離などの人種差別が根深いものであったことがあります。これらの歴史的な偏見は、今日に至るまで継続されていると考えられます。
【教育の偏り】
教育システムには、人種や文化に関連する偏見が含まれていることがあります。これらの偏見は、学生に影響を与え、社会全体に影響を及ぼすことがあります。
【報道のバイアス】
メディアは、アフリカ系アメリカ人に対する偏見や歪んだイメージを拡散することがあります。これらのバイアスは、社会全体の価値観に影響を与え、差別的な考え方を継続させることがあります。
【経済的格差】
アフリカ系アメリカ人は、他の人種に比べて経済的な格差が大きいとされています。このような格差は、人種差別や偏見が根深い社会的な問題を引き起こすことがあります。
以上のような要因によって、白人社会ではアフリカ系アメリカ人に対する差別や偏見は、いまだになくなっていません
1955年を起点としてジャズも社会も新しい動きへ
【ハード・バップ・ジャズが黒人社会に与えた最大の影響は?】
音楽を通じてアイデンティティや文化的アイデアを強調し、自己表現や創造性を促進することによって、黒人の自己認識と自信を高めたこと。
ハード・バップ・ジャズのミュージシャンたちが成功を収めることによって、黒人の社会的地位向上に寄与して、黒人文化に対するより広範な理解と尊重を促進することにも役立ちました
しかし一方、ホワイト・スープリーマシー(白人至上主義)の影響が根強い社会において、白人所有のレコード会社がハード・バップ・ジャズのプロモーションや販売を制限することがありました。
ハード・バップ・ジャズのミュージシャンが白人と共演する場合には、黒人ミュージシャンが不利な条件で契約を結ばされたり、レコーディングスタジオでの待遇が劣悪であったりすることもあり、ライブ演奏の場では、白人の聴衆が黒人ミュージシャンに向けて差別的な発言をしたり、席を与えなかったりすることもありました。
これらの行動は、黒人の自己認識や自信を脅かすものであり、ハードバップ・ジャズのムーブメントが直面した困難な側面の一部でした。
これらの問題を根本から解決するためには
アメリカ社会において、アフリカ系アメリカ人に対する差別や偏見は?
「歴史的な根源があること」「社会的な構造や慣習が残存していること」「教育やメディアなどの影響」などの複数の要因が絡み合っているからです。
また、経済的格差や政治的な問題、ジェンダーやセックス・オリエンテーションなど、多様な人種や文化を超えた差別や偏見もこの問題を引き続き引き起こしています。
これらの問題を解決するためには、社会全体での取り組みが必要です。
特に、教育やメディアの役割が大きいとされています。
潜在意識は、人間の認知や行動に強力な影響を与えます。
潜在意識は、生まれつきの意識や、社会的な観念、教育などから形成されるものです。変化することが難しいものもありますが、潜在意識のアップデートは可能と考えます
【自己反省】: 差別や偏見の根源にある自分自身の潜在意識を認識することが大切で、自分自身に問いかけ、どのような思い込みや価値観があるのかを明確にすることが重要です。
【新しい情報の入手】: 新しい情報や見解を入手することは、潜在意識をアップデートするのに役立ちます。多様な文化や価値観に触れ、新しい見方を学ぶことが大切です。
【人種や文化のミックス】: 人種や文化のミックスすることで、他の文化や価値観に触れ、新しい見方を学ぶことができます。多様な人種や文化のグループとの交流を通じて、差別や偏見に対する理解を深めることが大切です。
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