「ブラウン判決」とは
1954年5月17日にアメリカ合衆国最高裁判所が出した歴史的な判決で、アメリカ合衆国憲法修正第14条に基づき『人種差別を合法化する「分離の平等」原則を廃止』『公立学校における人種差別を禁止』したものです。
この判決は、アメリカ合衆国の人種差別撤廃のための重要な一歩となりましたが、残念ながら「ブラウン判決」による人種差別撤廃は即座に全国的に実現されたわけではありませんでした。
南部の一部の地域では、州や地方政府がこの判決を無視して人種差別を合法化するためにさまざまな手段を講じました。
「ブラウン判決」から数十年にわたり、人種差別的な「ジム・クロウ法」が南部の学校で実施され、黒人学生の教育機会を奪い続けたり、黒人学生をいじめたりする事件が多数報告されています。
また、学校に通う黒人学生やその家族に対する暴力や脅迫もあり、これらの事件は、アメリカ合衆国が人種差別を撤廃するために今日まで取り組んでいる長い歴史の一部となっています。
That’s All Right
1954年7月5日
テネシー州メンフィスのサム・フィリップスが経営するR&Bを扱う小さな独立レーベルの『サン・レコード』のスタジオでのセッションで、エルヴィス・プレスリーが突然ギターをかき鳴らしながらブルース歌手:アーサー・クルーダップの楽曲『That’s All Right』を歌いました
7月10日
メンフィスの白人専用ステーションWHQB(ラジオ放送)でエルビスの『That’s All Right』を流したところ大反響。
この新しい危険なサウンドは、瞬く間に南部からアメリカ全土に広がり【ロックンロール・ブーム】となっていきます
Shake, Rattle & Roll
1954年5月15日:ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツのデッカ移籍最初のレコードとして『Rock Around The Clock』をリリース(ヒットしませんでした)
そこで、2枚目シングル『Shake, Rattle & Roll』(1954年にR&Bチャートの1位を記録する大ヒットとなったビッグ・ジョー・ターナーのカヴァー)をリリースすると全米トップ10入りの大ヒット
この大ヒットによって『Rock Around The Clock』が、1955年3月19日公開映画『暴力教室(Blackboard Jungle)』の主題歌となったことで全米チャートで8週連続1位の大ヒット
1956年1月28日
エルヴィスは「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」に初出演して『Shake, Rattle & Roll』を歌います
1956年1月27日 エルヴィスは6枚目シングル『Heartbreak Hotel / I Was the One』をリリース(4月にチャート第1位を獲得)
1956年は エルヴィス・プレスリー時代の幕開けとなり『ロックロール』旋風が全米に広がっていきました
白人の方がレコードが売れるマーケット構造
1950年代中盤以降のアメリカは、公民権運動が広がるにつれて、白人と黒人は相容れない壁をつくり 互いの憎悪はますます激しくなっていた時代です
当時、黒人は黒人の音楽を聴き、白人は白人の音楽に耳を傾けているというのが現実でした
ラジオでオンエアされにくい黒人のヒット曲を白人がカバーして大儲けする『横取りマーケティング』が堂々と行われていました
音楽業界は『黒人アーティストの曲の盗用&カバー』を行って、白人が黒人を踏み台にして儲けるパターンを確立させていきます
パット・ブーンは、黒人アーティストによるシングル曲のカバーを数多く発表して有名になった白人アーティストの一人です
元ネタは ↓ ↓ ↓
歌い手とリスナーの大半が黒人であれば『R&B』/歌い手とオーディエンスが白人であれば『ポップス』に分類されるという音楽業界
エタ・ジェイムス(黒人)の「ウォールフラワー」は黒人マーケットを中心に40万枚を売り上げ
ジョージア・ギブス(白人)によるカヴァーのセールスは100万枚を超える大ヒット
白人歌手によるカバーは、より強固な流通チャネルとメジャーレーベルの宣伝力によってオリジナルの黒人よりも大ヒットするケースが珍しくありませんでした
エルヴィスが白人社会にも黒人社会にも受入れられた理由は?
白人のエルヴィスが、黒人のヒット曲を横取りして商業主義に走る他の白人歌手と違っていた点は?
黒人をリスペクトして黒人になりきって歌い踊るところ
自分の音楽的ルーツが黒人音楽であることを公然と認める発言
「黒人たちは、ずっと前から今僕がやっているようなスタイルで歌ったり演奏したりしていました。でも僕がやるまで誰も黒人たちの音楽に注意を払おうとしませんでした。僕は黒人たちから学びました」
多くの知識人や学者が『人種差別問題』解決に向けて、難しい顔をして頭を抱えていたところ、エルヴィスは歌で人種問題の壁を簡単に乗り越えてしまいました
He was an integrator. Elvis was a blessing. They wouldn’t let black music through. He opened the door for black music.
「彼は音楽をひとつにした。エルヴィスは神の恵みだ。白人は黒人の音楽を閉じこめていた エルヴィスがその扉を開いてくれたんだ」
リトル・リチャード語録
当時の白人社会は?
メンフィスから一気に広がっていった『ロックンロール』の流行は、南部で起こった公民権運動とも重なり、人種差別主義者だけでなく、保守層や聖職者といった多くの親世代から批判・糾弾されます
『ロックンロール』の『本質的な意味合い』が北部人と南部人では大きく異なっていました
【北部人】
1950年代半には、アメリカ全世帯の88%がテレビを所有していて、最新の家電製品に囲まれてた芝生つきの郊外マイホームで暮らすことが中産階級の目標となっていました
✅ 画一的な平凡な暮らしに満足する古い価値観の親世代
✅ 野心の冒険心もない親に反発する若者世代
『ロックンロール』が【南部社会の人種差別という歴史的な背景が生み出した音楽】という意味合いは薄れていき、若者世代が古臭くて堅苦しいモラルや価値観を押し付ける親世代に反抗するための旗印としての音楽スタイルとしてとらえられた
【南部人】
南部は『機械化』『化学肥料・農薬』などの合理化によって仕事を奪われた白人も増え、人々は仕事を求めて地方都市へ移動していきます
南部の田舎から見知らぬ都会に出てきて 工業化された非人間環境での仕事にはストレスも溜まり 週末には大衆酒場に集まって田舎から持ち込んだ音楽で踊って癒し合い 新しい連帯感が生まれます
✅ 故郷に思いをはせる過去に拘る親世代
✅ 都会の生活が楽しく順応して過去に拘りがない若者世代
南部人にとって音楽は最も身近な娯楽です。白人と黒人は隣り合わせに生活しながら それぞれ独自の文化を形成していてカラーラインを超えることは社会的タブーです
メンフィスの昼間は警官が白人と黒人の分離に目を光らせていたそうです
『ロックンロール』は、農村部の田舎から移住してきた若者たちが白人音楽と黒人音楽を融合させた新しい危険な音楽によって隔離社会における人種的接触を与える機会になるモノとして恐れた
当時の国民的TV番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演したエルヴィスは、意図的に上半身だけしか映しだされません。これは番組関係者が 保守的な視聴者の抗議に配慮したものです
エド・サリヴァンが次のように伝えます
「全米のテレビの前のみなさん。エルヴィスは実に謙虚な若者です」
エド・サリヴァン
『ロックンロール』は、単なる音楽という範疇に留まらず、当時のアメリカ若者世代の『行動スタイル』『価値観』そして古臭い親世代に対する『主張』だったんです
当時の親世代の大人たちは意図的に
『ロックンロール』は安全な『ポップ・ミュージック』へと転化したモノと認めていきますが
【黒人社会で起こっていた劇的な変化】を若者世代に見えないようした
とも言われています
ロックンロール旋風の最中に発生した事件
エメット・ルイス・ティル殺人事件
イリノイ州シカゴに住んでいたエメット・ルイス・ティルは、ミシシッピ州の都市であるMoneyに住む親戚を訪ねるためにシカゴから列車に乗って南部にやってきました。
立ち寄った食料雑貨店で、ティルがレジを担当した若い白人女性に口笛を吹いて、ちょっかいを出そうとしたことが事件のトリガーと言われていました。
1955年8月28日:タラハチー川(Tallahatchie River)で遺体が発見される
遺体は重い製粉石で縛り付けられ、川に投げ込まれていたという残忍な状態でした
(彼が誘拐され拷問され殺害されたのは、数日前の1955年8月24日のこと)
ティルの母親は、息子の死を発信するために『開かれた棺の葬儀』を行い、彼の遺体を世界に見せました。
この事件は、アメリカ南部における人種差別と暴力の象徴的な事件の一つです。
この事件は、ティルが立ち寄った食料雑貨店のレジを担当した若い白人女性に口笛を吹いて不適切な言動をしたとの噂が広がったことがきっかけで、彼を拷問して殺害した白人の男たちによって引き起こされたと考えられてきました。
しかし、後に明らかになったところによれば、ティルが白人女性に対して不適切な行為をしたという噂は根拠のないもので、この事件は単なる人種差別的な暴力行為であったことが明らかになります
当時、アメリカ南部の司法制度は人種差別的で、黒人の証言は信用されず、白人の証言が優先されたため、この事件においても、白人の被告人にとって有利な判断が下されました。
また、当時は陪審員の選定方法や、警察による取り調べの手法にも問題があり、それらの問題が事件の調査や裁判にも影響を与えたとされています。
エメット・ティル殺人事件の犯人とされた白人の男たちは(ロイ・ブライアントとジェイ・ワイリー・ミルアム)は裁判で無罪となります
しかし、この事件は公民権運動において重要な出来事となり、人種差別や不正義に対する社会的な意識を高めるきっかけとなりました。
この事件は、人種差別や偏見が拡大する社会において、不当な疑いや不条理な暴力に直面するアフリカ系アメリカ人に対する警鐘となりました。
モンゴメリー・バス・ボイコット運動
1955年12月1日
アラバマ州モンゴメリーで、アフリカ系アメリカ人女性のローザ・パークスが、バスで白人の席を譲るように命じられ、それに従わなかったことから逮捕されました。
この事件がきっかけとなり、アフリカ系アメリカ人らはバス会社のボイコットを呼びかけ、モンゴメリー市内のバスを利用しなくなりました。
このボイコットは、1955年12月5日に始まり、381日間続きました。
ボイコットは、市内の公共交通機関を完全に麻痺させ、アフリカ系アメリカ人の公民権運動を一気に加速させました。
最終的に、アメリカ合衆国最高裁判所は「バスの人種差別を違憲」と判断し、公民権運動に大きな影響を与えることになりました。
「リトルロック事件」
「リトルロック事件」とは
1957年にアーカンソー州の州都リトルロックの中等教育学校「リトルロック・セントラル・ハイスクール」において、アフリカ系アメリカ人の9人の高校生が初めて入学しようとした際に、白人学生や市民らの反対により、入学を妨害された事件です。
リトルロック市長は、この事件を受けて黒人学生を守るために、州兵を派遣し、黒人学生を学校に入れようとしましたが、当時のアーカンソー州知事は、州兵を黒人学生の前に配置する命令を拒否し、事件は長引きました。
最終的に、アメリカ合衆国大統領アイゼンハワーが、連邦軍を派遣し、黒人学生の入学を強制し、事件が解決しました。
この事件は、アメリカ合衆国における人種差別撤廃運動において重要な出来事の一つであり、黒人学生たちは、公民権運動における英雄的な存在として称えられています。
リトルロック事件当時のアーカンソー州知事のオーヴァル・ファウバス(Orval Faubus)は、リトルロック・セントラル・ハイスクールに黒人学生が入学することに反対して、州兵を派遣して入学を妨害します。
当時の南部においては、白人優位の人種差別文化が支配的であり、黒人に対する差別意識が強かったため「ブラウン判例」を受け入れることに抵抗がありました。
そこで、白人層の利益を守るために排除する動きが生じたと言えます。
当時のアメリカ合衆国大統領はドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)は、連邦軍を派遣して黒人学生の入学を強制する決断を下します。
治安維持活動に軍隊が動員されたのは 南北戦争後に北部が南部を撤退した1877年以来初めてのことです
リトルロック事件は、全米的な注目を集めた事件の一つであり、テレビや新聞、ラジオなどで広く報じられました。
当時のメディア報道には、何らかの規制が存在しました。
南部においては人種差別が根強く、報道機関に対しても白人優位の報道が求められる傾向がありました。
このため、黒人学生に対する暴力や人種差別行為が報道されることは少なく、メディア規制があったと言われていて、真実を伝えることが困難であったことは否めません。
一方で「リトルロック事件」を契機に、全米的な反発や抗議行動が起き、人種差別撤廃のための動きが広がっていき、メディア報道の自由や社会的な変革を促すきっかけとなったとも言えますが、メディア報道の真実性を問う契機となったとは言いがたいと思います。
しかし、この事件を通じて『人種差別を根底から改善するための取り組み』が進められ、現在のように人種差別撤廃に向けた多様な運動が進んでいることは事実です。
1959年:チャールズ・ミンガスがリトル・ロック事件を揶揄する曲『ファウバス知事の寓話(Fables of Faubus)』を発表(歌詞の中でフォーバス州知事とアイゼンハワー大統領を激しく批判)
ジャズ・アンバサダーズ
冷戦初期のソ連は、バレエやクラシック音楽で文化外交を展開して、アメリカ社会の『黒人差別』を国際的な宣伝戦に使っていました
この対抗策として、アイゼンハワーの承認を受けたアメリカ国務省は、1956年から著名なジャズ・ミュージシャンを「外交官」として海外に派遣します
最初のイラン演奏旅行に赴いたのはディジー・ガレスピー。その後 ルイ・アームストロング デューク・エリントン デイヴ・ブルーベックなどが派遣されます
アイゼンハワー大統領が、ソ連に立ち後れているという危機感を認識し文化外交に力を入れるようになった目的は?
✅ ソ連の流す「アメリカ=人種差別国家のプロパガンダ等式」を否定すること
✅ ジャズは『人種差別国家』という批判を交わすのにうってつけの音楽として文化的プロパガンダ合戦に利用した
✅ 背景には『ソ連世界初人工衛星スプートニク1号打上成功』があったと考えられる
そして『リトルロック事件』が世界中に伝わった時、サッチモ(ルイ・アームストロング)はツアー中に行われた記者会見で次のように語ります
「南部にいる私の同胞に対する仕打ち 政府は地獄に堕ちて当然だ」
「The President has No guts!」
と発言して、ソ連への文化外交派遣を拒否しました
ロックンロール旋風は何だったのか?
1950年代中盤の音楽産業は人種差別が横行し、アフリカ系アメリカ人のミュージシャンは偏見と差別に直面していました
ロックンロールの人気の一部は、白人ミュージシャンによって主導されていましたが、黒人音楽の影響を受けて生まれたジャンルなので、チャック・ベリーやリトル・リチャードなどのアフリカ系アメリカ人のミュージシャンも多く活躍しました
結果的にロックンロールの台頭は、白人と黒人の文化の境界を崩し人種間の交流・文化的な交流を促進する役割を果たす一方で、人種問題が浮き彫りになり、更なる反感や分断をも生み出すことにもなったのは事実と考えます
しかし、若者世代から爆発的な人気だったロックンロール旋風も長続きしません
1957年以降 度重なる事件や事故をきっかけに衰退していきます
ロックンロールの衰退要因①
リトル・リチャード突然の引退
彼は早い段階からゲイであることを発表していました(当時は同性愛者に対しては人種差別と同じくらい差別が酷かった時代です)
1957年:オーストラリアツアーに向かう時の飛行機トラブル経験で「神からの思し召し」があったとしてツアーをキャンセルして、その後、アラバマ州のオークウッド大学に入学して神学を修め牧師となります
ロックンロールを『悪魔の音楽』としてゴスペルを歌う生活を送ります
1958年エルヴィス・プレスリーが徴兵される
アメリカは徴兵制を採用していたので エルヴィスも例に漏れず兵役に従事 人気絶頂期に2年間も音楽シーンから離れました
ジェリー・リー・ルイスの妻が結婚最低年齢未満だったことが発覚
1958年5月 イギリス・ツアー向かう空港での突撃インタビューで「妻が父方の従兄弟の娘」「妻が結婚最低年齢を下回る13歳」であったことが発覚して大スキャンダルに(ツアーはキャンセル)
バディ・ホリーが飛行機事故で死亡
1959年2月3日 バディ・ホリーがチャーターした小型飛行機が墜落して死亡(同乗したリッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーも死亡)
チャック・ベリーが14歳の少女を連れて州間を不法越境
1959年12月:チャック・ベリーがメキシコで出会った14歳のウェイトレスを連れ回し売春を強要した容疑で逮捕され「懲役5年と罰金5,000ドル」が下されました。この事件によってチャック・ベリーの評判は没落。ロックンロールの勢いは地に落ちていきます
1960年4月7日 エディー・コクランが交通事故で死亡
ロックンロールの衰退要因②
『ぺイオラ(Payola)』とは?
レコード会社がDJに働きかけて特定のレコードを流してもらう見返りにDJにリベートを支払うことをさす言葉
1950年代は『ペイオラ』を違法とする法律も存在しなかったので、合法的な慣例として業界内で慣例化していました
1958年:米国作曲家作詞家出版者協会(ASCAP)は『ペイオラ』を放送倫理の腐敗と激しく非難によって【『ペイオラ』を商業上の賄賂】とする法律が制定されました
1959年から1960年にかけて『ペイオラ』に関わったDJや音楽関係者の多くが業界から追放され、当時 全米で最も有名なDJとなっていたアラン・フリード(Alan Freed)も業界から追放されました
この『ぺイオラ』スキャンダルによって、ラジオからは、ロックンロールが消えポップス音楽が中心に流されていくこととなります
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