アメリカ音楽史で考えるダイバーシティ⑨(R&B~ソウルミュージック)

ビジネス

R&B(Rhythm and Blues)

1940年代後半から1950年代初頭にかけて、アフリカ系アメリカ人が中心になって『リズムやブラス・セクションの強調』『独特のベースライン』『ストロング・ビート』などの特徴的な要素を持つ新しい音楽を創造されていました。

『ホンカー』:パワフルに吹きまくるサックス奏者

『シャウター』:パワフルなサックスに負けないヴォーカル

ジャズとブルースが融合した新しい形態の音楽が、アフリカン・アメリカンのコミュニティで人気を博し、後に白人の聴衆にも広がっていき大衆に受け入れられるようになっていきました

これが『R&B(リズム・アンド・ブルース)』、1960年代に入り『ソウル・ミュージック』と呼ばれるようになる音楽ジャンルです

『ゴスペル』から離れてポップ・ミュージックを歌うアーティストも現れてきました。

歌い方は「コール&レスポンス」を含む『ゴスペル』風で、曲調は『ブルース』

教会の人たちからは「背信行為」と思われ批判されますが、R&Bはポピュラー音楽のメジャー・シーンに浮上していきます。

音楽業界誌『Billboard』のヒット・チャート

1936年1月4日

最初のヒットチャート『Most Played In Jukeboxes』(ジュークボックスで流れたヒット曲の一覧)を発表

1942年10月24日

黒人アーティストの音楽ランキングは『ハーレム・ヒット・パレード(Harlem Hit Parade)』という名称で登場(このチャートは、その名の通りニューヨークのハーレム地区のレコード店6店舗の売り上げに基づくランキング)

それ以降、ビルボード誌は時代に合わせて次々に名称を変えます

【1942年10月~45年02月】:『Harlem Hit Parade』
【1945年02月~49年06月】:『Rase Records』

音楽ですら人種差別的に扱われていることに違和感を感じた編集者のジェリー・ウェクスラー「レイスを使った名前で呼ぶ時代じゃないだろう」という考えから『Rhythm&Blues (R&B)』と表現することを提案して、1949年から『R&Bチャート』がスタートします

【1949年06月~58年10月】:『Rhythm & Blues Records』
【1958年10月~63年11月】:『Hot R&B Sides』

アメリカ全土で公民権運動が熱を帯びていた頃、不思議な現象が起きます

【1963年11月30日付号から1965年1月23日付号】:黒人アーティストのランキングが未掲載

ビルボード誌サイドは「これだけ様々なジャンルの音楽が巷に溢れている今、わざわざR&Bチャートをジャンル分けして掲載する必要がない」と苦し紛れの弁明をしますが、

【1965年01月~69年08月】:『Hot Rhythm & Blues Singles』

何事もなかったかのように、ヒット・チャートが復活します

アルバム・チャートもスタートします

<その後のチャート名の変遷>
【1969年08月~73年07月】:『Best Selling Soul Singles』
【1973年07月~82年06月】:『Hot Soul Singles』
【1982年06月~90年10月】:『Hot Black Singles』
【1990年10月~1999年】 :『Hot R&B Singles』

【1999年~2005年】:『Hot R&B /Hip-Hop Singles & Tracks』
【2005年~2009年】:『Hot R&B / Hip-Hop Singles』
【2009年~ 】:『R&B /Hip-Hop Songs』

ゴスペルは希望を歌う

1865年の奴隷制廃止後、奴隷時代の「見えない教会」ではなく、魂の救済に限らずに「相互扶助」「教育」をも目的とした【黒人たちにとっての自分たちの教会(黒人教会)】を持ちたいと切望します。

南部の黒人は早くから奴隷制に反対してきた「パブテスト派」か「メソジスト派」を選び、やがて黒人牧師が誕生していきます

礼拝のとき、黒人牧師は説教原稿を最初はゆっくり読み上げるのですが、感情の高まりとともに言葉は即興的になりコール&レスポンスが始まり、神を称える歌になっていきます

ゴスペル(gospel)の語源は「good spell」で「good news」の『吉報』という意味も含まれていると考えています。

今あるゴスペルは、1920年代後半シカゴのパブティスト教会で完成されたと言われています。

ゴスペルがアメリカ国内で広がるにつれて、白人だくでなく黒人の一部も「品位に欠けている」という批判の声が上がりました

しかしゴスペル・シンガーたちは「胸に迫るものがあったら身体全体を使って表現するのが当たり前のこと」と、そんな批判を打ち消します

「ゴスペル音楽の父」トーマス・ドーシー(Thomas Dorsey)

「ゴスペルの女王」マへリア・ジャクスン(Mahalia Jackson)

「絶望を歌うのがブルース、希望を歌うのがゴスペル」

Bitly

ゴスペル界のスター

ジェイムス・クリーヴランド(James Cleveland)
ディキシー・ハミングバーズ(The Dixie Hummingbirds)
スワン・シルヴァートーンズ(The Swan Sliver-tones)

「ソウルの神様」レイ・チャールズ(Ray Charles)

レイ・チャールズ(1930年9月23日ジョージア州アルバニー生まれ)

彼は幼少期に失明し、6歳のときに親元を離れて、フロリダ州セントオーガスティンの盲目の学校に入学しました。そこで音楽に興味を持ち、ピアノを弾くことを学びました。彼はまた、クワイアでゴスペル音楽を歌い始め、音楽キャリアをスタートさせました。

1940年代後半から1950年代にかけてレコーディング業界に参入し、最初のヒット曲「I Got a Woman」を発表しました。

1959年にアトランティック・レコードから「What’d I Say」をリリース。Billboard Pop 100で6位となる大ヒット。

当時『ゴスペル』はアフリカ系アメリカ人のコミュニティで重要な位置を占めていました

ゴスペル・シンガーとして成功していたレイが世俗音楽に転向することは、ゴスペル関係者からは「裏切り」とみなされ、また「What’d I Say」の歌詞の内容が性的なものであることから(曲中でレイが女性に対して「やってみないか」と歌う部分など)、当時の社会的・文化的な風潮とは相反するとして、一部の保守的なキリスト教徒からは強い反発が起きました。

サム・クック (Sam Cooke)

サム・クック (1931年1月22日ミシシッピ州クラークスデール生まれ)

サム・クックは、10代の頃からゴスペルグループでの活動を始め、その才能を開花させました。彼は、1950年代初頭に、The Soul Stirrersというゴスペルグループに加入し、その後、グループのリード・ヴォーカリストとして注目を集めました。

彼のゴスペル時代の代表曲としては「Touch the Hem of His Garment」「Nearer to Thee」などが挙げられます。

これらの曲は、彼の豊かなソウルフルなヴォーカルスタイルが特徴的であり、彼の将来のポピュラー音楽での成功の予兆を示していました。

1950年代に入りソロ活動を開始。1957年にはデビューアルバム「Sam Cooke」をリリース。その後、ヒット曲を数多く生み出し、R&Bやポップスのチャートで常に上位にランクインする人気歌手となりました。

また彼は、音楽業界において人種差別の問題を克服し、多くのアーティストたちに影響を与え、自らのレーベルを設立するなど、音楽ビジネスにおいても成功を収めますが、1964年12月11日にロサンゼルスで銃撃事件に巻き込まれて亡くなります。

R&Bからソウルミュージックへ

「ソウルミュージック」という用語は、黒人音楽に対する新しいジャンルの名前として1960年代初頭に生まれました。R&Bやブルース、ゴスペルなどの黒人音楽のさまざまなスタイルが結集して、より洗練された、よりポップな音楽形態が生まれたことを表す言葉として使用されるようになりました。

この言葉は、音楽ジャーナリストやレコード会社の宣伝部門などによって広められました。特に、モータウンレコードやSTAXレコードが生み出した、よりポップなソウルミュージックが、大衆に広く受け入れられるようになったことで、この言葉が広く使用されるようになったと言われています。

一方で、白人アーティストの音楽にも「ソウルミュージック」という用語が使われることがありましたが、そのような使い方は、一部の批評家や音楽ファンから批判されることもありました。

『ソウル』という言葉には「アフリカ系アメリカ人の誇りや文化」という意味が込められています

批判する評論家や音楽ファンは、白人アーティストが黒人音楽から影響を受けたことを認めることは重要である一方で、白人アーティストと黒人音楽を同列に扱うことができるかどうかは、音楽的・文化的な背景や社会的な文脈などから様々な要素を考慮する必要があり、同列に扱うことはできないと主張しました。

音楽も肌の色で「差別」されたり「分類」されたりすることには、人種差別や社会的階層制度など、複数の要因が絡んでいますが、白人主導のアメリカ音楽業界においては「当たり前」のことだったのでしょう。

モータウン・レコード設立

モータウン・レコード(Motown Records

1959年1月12日にミシガン州デトロイトに、ベリー・ゴーディJr.(ジャズ専門のレコード店経営~ソングライターなどの活動していた)が設立した、制作・販売・宣伝・楽曲管理など全てを自社で行うインディペンデントな『ソウル・ミュージック』専門のレコード会社

人種を超えて幅広い層に親しまれ 白人への迎合との批判もありましたが 「The Sound Of Young America」をモットーとして「Hitsville USA」という愛称でも親しまれ 軽やかで弾むようなビートと口ずさみたくなるメロディで若者に向けたポップな楽曲を送り出し音楽界に強い影響を及ぼしました

モータウンレコードの特徴は?

黒人音楽のポピュラリティを高めるための独自の音楽スタイルやビジネスモデルにあります。

ジャズ、ブルース、ゴスペル、そしてR&Bを組み合わせたもので、洗練されたハーモニー、リズム、そしてメロディによって、広い層の聴衆にアピールしました。

<品質管理の徹底>

自働車を製造するための様々な工程と同じように「コンセプト」「デザイン」「設計」「試作」「製造」「試験」「生産管理」「品質管理」「販売」「公告」などの部門が流れ作業のようにレコード制作していき それぞれの分野の専門性追求において人種や性別に関わりなく雇い入れたこと

アーティストの育成から、レコーディング、マーケティング、そしてライブパフォーマンスまで、すべてのプロセスを内部で管理し、コンサートツアーも自社主催で行っていました。

<ソングライター・チーム制>

ヒット曲を競い合うソングライター&プロデユーサーのチーム体制確立

ボブ・ディランに「アメリカが生んだ最高の詩人」と言わしめたスモーキー・ロビンソン

エディ・ホランド=ラモン・ドジャー=ブライアン・ホランド(H=D=H)などのソングラーター・チーム

<ハウス・バンド>

ソングライター・チームが生み出した曲を「ファンキー」なノリを付け加える最強のスタジオ・ミュージシャン【ファンク・ブラザース】を要していました。

ファンク・ブラザースの代表的なメンバーは以下の通り

Baby Baby (James Johnson)・ Street Talk (Billy Gordon)・ Eddie Floyd (Eddie Floyd)・Willie Stubbs (brother of Levi Stubbs of the Four Tops)・ Question Mark (Rudy Martinez)・Joe “Pep” Harris・Haze Weston・ Marty Paitchick・Don Doddson・ Bill “Street” Tucker

ベリー・ゴーディJr.が目指したこと

ベリー・ゴーディJr.目指したのは

音楽産業における偏見や差別を打破し、黒人アーティストに音楽業界での平等な地位を与えること

黒人社会の窮状を明らかにすることではなく、白人にも受け入れられる黒人音楽を創り出すことで人種を融合するクロスオーバーを実現でき、黒人の社会での発言力を向上させる現実的な方法

引用:ベリー・ゴーディJr.著書「What’s Going On」

「社会問題には直接的に言及しない」という弱腰とも思える方針は、黒人のアイデンティティを強調する立場の人からは当然批判されましたが、スモーキー・ロビンソンが上手に説明しています

「自分は黒人であることを誇りに思っている、それは確かだが、ステージはそのことについて説教する場所ではないと思う。」

引用:スモーキー・ロビンソン自叙伝「Smokey: Inside My Life」

ベリー・ゴーディJr.は、若い黒人アーティストを育てるために、モータウンのスタジオで指導やアドバイスを提供するなど、積極的なサポートを行いました。

モータウンの音楽が白人層にも受け入れられるよう、ポピュラー音楽の要素を取り入れることで、広い層の聴衆にアピールしました。

自社のアーティストを教育し、個人的なスタイルやマナー、そしてメディアトレーニングを受けさせ、プロフェッショナルなアーティストに育て上げることにも力を入れました。

「黒人をターゲットにした【R&Bチャート(レイス)】でヒットするだけでなく、白人をターゲットにした【ポップ・チャート】でもヒットして『アメリカン・ミュージック』としてのスターになること」

引用:ベリー・ゴーディJr.著書「To Be Loved: The Music, the Magic, the Memories of Motown」

スタックス・レコード設立

スタックス・レコード (Stax Records)

1959年に当時銀行員であったジム・スチュワート(Jim Stewart)がメンフィスにサテライト・レーベルを設立。その後エステル・アクストン(Estelle Axton)との共同経営へと移り2人の最初の(STewartとAXton)2文字を取りSTAXとし1961年から本格的スタートしたレコード・レーベル

Staxレコードは、黒人コミュニティに根ざしたレコード・レーベルとして始まり、メンフィスの音楽シーンにおいて、ソウルミュージックの重要な拠点となりました。

「メンフィス・ソウル」として知られる音楽スタイルを確立し、1960年代後半には、多くのヒット曲を生み出し、世界中で人気を博しました。

当時としては珍しく(特にメンフィスのような南部では)経営陣・アーティスト・スタジオミュージシャンが白人と黒人の混成チームで構成されていました

<ハウス・バンド>:Booker T and The M.G.’s も、黒人・白人混成バンドでした

1960年代初頭、地元のラジオ局のDJであるルーファス・トーマスを起用した「Last Night」のヒットで注目を集め、その後も、オーティス・レディング、ウィルソン・ピケット、サム&デイヴ、そしてアイザック・ヘイズなど、多くの有名なアーティストを輩出しました。

Staxレコードが目指したもの

黒人コミュニティに根ざし、そこで生まれる音楽を発掘して世に送り出すことによって、アフリカ系アメリカ人の音楽が本来持っている力や魅力を世界中に広め、人々に共感を呼び起こすこと

後に、公民権運動と密接に関わっていきアフリカ系アメリカ人の権利向上に貢献することも目指していました。

まとめ

リトル・リチャードやチャック・ベリーなどのロックンロール・アーティストが成功を収め、マイルス・デイヴィスが「Kind of Blue」がモード・ジャズの先駆的なアルバムとして評価されたことは、黒人社会だけでなく音楽史上の重要な出来事としても位置付けられています。

1950年代後期の白人社会において、モータウンレコードなどの黒人系レコード・レーベルに対する受け止め方は、一概に言えませんが、総じて言えることは「賛否両論」と考えられます

白人主導の音楽業界は、黒人系レコード・レーベルが人気を集める流れに対して、懐疑的な見方をしていたと言われています。

白人社会が支配的であった当時のアメリカにおいては、人種差別が根強く、黒人の文化や音楽に対する偏見やステレオタイプが存在しました。

そのため、黒人系レコード・レーベルの音楽が白人社会に浸透していくことに対しては、保守的な層からは反感を持たれることもありました。

しかし1960年代になって、モータウンレコードは、多くのアーティストをテレビやラジオなどのマスメディアに出演させることで、若者たちを中心に口コミで広がり、次第に広く認知されるようになり、モータウン・サウンドで楽しむようになっていきました

そして、それまで主流であった白人アーティストによるポップ・ミュージックに対して、黒人アーティストたちが創り出したソウル・ミュージックやR&Bは、後に白人アーティストたちにも取り入れられ、音楽の多様性を広げることになり、音楽業界において人種差別的な偏見が少しずつ緩和されるきっかけとなっていきました。

『ソウル(ブラック・カルチャー)』がアメリカン・カルチャーになるには白人社会に受入れられる必要がありました

『ソウル・ミュージック』は「R&B」の商業化や都市化によって創造された音楽

と言えると思います。

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