コンゴ民主共和国(Democratic Republic of the Congo)
【面積】 234.5万平方キロメートル
【人口】 9,589万人(2021年、世銀)
【首都】 キンシャサ
【民族】 部族の数は200以上、大部分がバントゥー系
【言語】 フランス語(公用語)、スワヒリ語、リンガラ語、チルバ語等
【宗教】 キリスト教(80%)、イスラム教(10%)、その他(10%)

コンゴ王国(Kingdom of Kongo)
14世紀末から19世紀初頭にかけて存在した中央アフリカの歴史的な王国で、現在のコンゴ民主共和国、アンゴラ、およびコンゴ共和国の一部を含む領域にまたがっていました。

コンゴ王国は14世紀末にルウラ族によって設立され、その後、領土を拡大し、最盛期には数百万人の人々を統治していました。
王国はいくつかの州に分けられ、各州には地方知事が任命されました。
1482年にポルトガルの航海者ディオゴ・カーオがコンゴ川を遡上し、コンゴ王国と接触を持つ最初のヨーロッパ人となりました。
これにより、ヨーロッパとアフリカの間での貿易や文化交流が始まりました。
当時は、ポルトガル王国とコンゴ王国は対等な同盟関係を結んでいました。
コンゴ王国はキリスト教を公認し、ヨーロッパの影響を強く受けます。1491年にはポルトガルから宣教師が送られ、コンゴ国王も自らも洗礼を受け、王国内のキリスト教化を積極的に押し進めていきます。
サントメ・プリンシペ
1470年にポルトガル人によって発見された無人島で、初めは流刑地として使われました。
この島は、本国からの追放者や冒険家などさまざまな背景を持つ人々が集まる場所となり、新たな社会が形成されました。

当時、ヨーロッパ諸国は新航路の開拓と新大陸の植民地化によって富を増やすため、新たな貿易路を求めていました。
サントメ・プリンシペは、大航海時代に開かれたインド洋への海上ルート上に位置しており、そのため寄港地として重要な役割を果たすようになりました。
島の経済は活発化し、砂糖やコーヒーのプランテーションが広がりましたが、これらの大規模農業には大量の労働力が必要となりました。
こうした背景から、大陸から奴隷が送り込まれるようになりました。そして、その主な供給源がコンゴ王国となったのです。
奴隷狩りが横行するようになると、社会は混乱し、王国の統治力は弱まりました。
コンゴ国王は、ポルトガル国王に対して奴隷貿易をやめるように訴えましたが、ヨーロッパの関心は新大陸の開発に向かっていて、ポルトガルからの応答は期待できず、コンゴ王国の社会は更なる混乱に陥っていきます。
17世紀から18世紀にかけて、コンゴ王国は奴隷貿易の中心地であり、その結果として社会経済の構造が大きく揺らぎました。
コンゴ王国内での奴隷狩りが増え、人々が強制的に連れ去られるなど、社会は混乱しました。
この奴隷貿易によって社会経済のバランスが崩れ、さらには内部の紛争やポルトガルとの戦争により王国の統治力は衰退しました。
具体的には、奴隷貿易によって人口が減少し、生産力が低下。さらに、王国内部の力関係も変動し、対立や分裂が生じました。
ムブンバ戦争(Battle of MbwilaまたはUlanga)
ポルトガルとコンゴ王国との間の戦争は主に17世紀に発生しました。
初めての大規模な戦争は1665年におこりました。
これはコンゴ王国とポルトガルの間の勢力範囲争いに端を発したものです。
戦争の背景には、ポルトガルがアンゴラ(現在のアンゴラ)を拠点にして南進し、コンゴ王国の領土を侵食し始めたことがありました。
これに対しコンゴ王国は抵抗を示し、双方の間に緊張が高まりました。
しかし、この戦争で、コンゴ王アントニオ1世がポルトガル軍に対抗するも敗れ、戦死しました。
この戦闘はコンゴ王国に大きな打撃を与え、王国は事実上分裂し、各地方の有力者(マノイコ)が独立した勢力を保った状態になり、奴隷貿易の増大と結びつきました。
奴隷貿易はさらなる社会的混乱を引き起こし、王国の分裂を一層進行させたとされています。
そして、16世紀から19世紀にかけて、コンゴ王国は大西洋奴隷貿易の中心地の一つとなり、多くの人々が奴隷としてアメリカ新世界へと売られました。
この歴史的な背景は、植民地時代のアフリカの歴史を理解するための重要な要素であり、現代のアフリカ諸国の社会や文化に対する理解を深める上でも重要です。
ベルリン=コンゴ会議(あるいはベルリン西アフリカ会議)
1884年から1885年にかけて、ドイツのベルリンで開催された国際会議で、これによってアフリカ分割(スクランブル・フォー・アフリカ)が公式に認められ、各国の勢力範囲が確定しました。
この会議は、ドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクが主導し、全14か国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ベルギー、デンマーク、スペイン、アメリカ合衆国、フランス、英国、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア、スウェーデン=ノルウェー、オスマン帝国)が参加しました。

その主な目的は、アフリカの領有権を巡る国際紛争を防ぎ、アフリカの開発に関する基本原則を確立することでした。
具体的には、アフリカ大陸の未占領地への進出を図る列強国間の規則作り、ナイジェリア川とコンゴ川流域の自由通商と航行の原則、そして新たな領土占領の際の通告義務などが規定されました。
この会議により、アフリカ大陸はヨーロッパの列強国によって分割され、各国の植民地化が進行しました。
また、この会議を通じて、
ベルギー国王レオポルド2世が私有地としてコンゴ自由国を設立することが国際社会に承認されました。
これは後に、レオポルド2世によるコンゴの搾取と人権侵害を引き起こすこととなりました。
この会議でレオポルド2世個人の私有地として、コンゴ自由国の統治権を獲得できた背後には、いくつかの要因があります。
事前の地理的・政治的な探査:
レオポルド2世はヘンリー・モートン・スタンリーなどの探検家を通じて、コンゴ地域の探査と条約の交渉を進めていました。これにより、彼は地理的な主張を立証する証拠を提供できました。
ディプロマシーと政治的機転:
レオポルド2世は、会議に参加した他の国々に対し、自身がコンゴ地域で「自由貿易と文明化」を推進すると主張しました。
彼は、自分自身を「フィランソロピスト」で「文明化の使者」という立場に置くことで、自身がコンゴを統治する目的は「非文明化された」地域に文明をもたらすためだと主張しました。
自己の目標が商業的利益だけでなく、また「高尚な」目的を持っているという印象を与えることができたのです。
彼のこの主張は、19世紀のヨーロッパに広く受け入れられていた「文明の負担」という理念に合致していました。
競合の不在
この時期、他の欧州列強国は他の地域、特に北部と南部のアフリカに関心を持っていました。このため、中部アフリカのコンゴ地域は競争が比較的少なかった。
コンゴ自由国がレオポルド2世の私有地となったことは、他の列強国がこの地域に対する支配を主張することを避けるという点で利点がありました。英仏など他の国がコンゴを掌握すると、アフリカ全体の勢力バランスが崩れる可能性があった。
それに対して、コンゴがベルギー国王の私有地となることで、そのような勢力バランスの変動を回避できた。
これらの要因の結果、ベルリン会議でレオポルド2世がコンゴ自由国の統治権を獲得することが承認されました。

コンゴ自由国(1885年から1908年)
ベルリン会議によって、ベルギー国王レオポルド2世の私有地として設立されたコンゴ自由国は、大部分が現在のコンゴ民主共和国の領域と一致します。
具体的には、中央アフリカの大部分を占め、北は中央アフリカ共和国とスーダン(現在の南スーダンを含む)に接し、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア、ザンビアに接し、南はアンゴラに接し、西は大西洋に面しています。
コンゴ自由国には、現在のアンゴラやコンゴ共和国を含んでいません。
ベルリン会議以降、アンゴラと現在のコンゴ共和国はともにヨーロッパの植民地支配下にありましたが、その統治形態は異なっていました。
アンゴラ
ポルトガルによる植民地統治下にありました。
16世紀から19世紀にかけて、ポルトガルは奴隷貿易を通じてアフリカとの交易を進めてきましたが、19世紀後半から20世紀初頭にかけては、その重点が奴隷貿易から資源の探索と開発、そして植民地の経済的開発へとシフトしました。
それに伴い、アンゴラでも農業、鉱業、労働力の供給などを目的としたコントロールが強化されました。
コンゴ共和国(当時のフランス領コンゴ)
フランス領コンゴは、フランスの植民地帝国の一部でした。
フランスは19世紀末から20世紀初頭の「アフリカ分割」の過程で、現在のコンゴ共和国を含む広大な地域を支配下に置きました。フランスの統治は、資源の探索と開発、農業の強化(特にゴムやパームオイルなど)、そしてインフラ(道路や鉄道)の開発を目的としていました。
これらの活動は、地元の人々からしばしば労働力を強制的に徴収する形で進められました。
どちらの地域も、欧州の植民地支配による経済開発と社会制度の変化、そしてそれに対する地元の抵抗といった問題に直面していました。
当時のコンゴ自由国では、ゴムと象牙の生産が主な経済活動でした。
コーヒーブームで植民地化していたジャワから利益を上げていたオランダに習って、レオポルト2世は、自転車産業の発達と共に、コンゴ自由国の天然資源を可能な限り最大限に利用しようと考えました。
その結果、コンゴの人々は過酷な労働条件下で働かされることとなります。
コンゴ自由国の統治体制は、厳格で残酷であると広く報告されています。
レオポルド2世はコンゴ自由国を彼の私有地として統治するための行政機関、彼の私有警察である”Force Publique”が設立されました。
“Force Publique”は、フランス語で「公的力」を意味します
“Force Publique”は、レオポルド2世が任命したヨーロッパ人(主にベルギー人)の将校と彼に忠誠を誓ったコンゴ人の兵士とで構成されていて、コンゴ自由国の秩序維持と、特にゴムや象牙などの資源の収集を強制するための暴力的な手段として使用されました。
また、レオポルド2世はコンゴの地方リーダーを彼の統治に協力するよう強制し、これにより多くの地方社会が破壊されました。
レオポルド2世の統治体制は非常に中央集権的であり、地方リーダーたちはレオポルド2世の行政システムに組み込まれ、彼の命令に従わなければならなかった。
地方リーダーは、主にコンゴの先住民族、つまりコンゴ人である可能性が高いです。
これにより、多くの地方社会がその伝統的な社会構造と文化を破壊され、地方リーダーたちもまた彼らのコミュニティを守るという役割から強制労働の監督者へと変わっていったと考えられます。
この強制的な労働は、地方社会の破壊につながり、コンゴ自由国の人権侵害の根底をなす要因となりました。
“Force Publique”の一部として知られている最も恐ろしい行為の一つは、収集したゴムや象牙の量が不十分だと判断されたコンゴ人労働者の手足を切り落とすことでした。
このような虐待は、コンゴ自由国における人権侵害の象徴となりました。
しかし、この情報は広範な歴史的文脈に基づいて解釈されるべきです。
コンゴ人がForce Publiqueの一員となった動機や経験は、個々の状況や背景により異なる可能性があります。
レオポルド2世の統治が1908年に終わり、コンゴ自由国がベルギーの公的な植民地となると、”Force Publique”はそのまま存続し、ベルギーがコンゴから撤退する1960年まで存在しました。
レオポルド2世は1909年12月17日にブリュッセルで亡くなりました。(享年74歳)
彼の死因は公式には冠状動脈疾患とされています。
レオポルド2世は、その時点で彼はベルギー国王としての役職からはすでに退いており、その後任には彼の甥であるアルベール1世がついていました。
広範囲な人権侵害と残虐行為が世界的に知られるようになった
コンゴ自由国での広範囲な人権侵害と残虐行為が世界的に知られるようになったのは、宣教師や他の外国人がこれらの事態を目撃し、報告したことが大きなきっかけとなりました。
中でも、特にエドムンド・モレルとロジャー・ケースメントの二人が重要な役割を果たしました。
エドムンド・モレル(Edmund Morel)

ベルギーの海運会社で働いていた英国人で、彼の業務はコンゴ自由国とヨーロッパとの間での貿易を監視することでした。
彼は、ヨーロッパからコンゴへの輸出と、コンゴからヨーロッパへの輸入との間に著しい不均衡があることに気付きました。
コンゴからは大量の象牙とゴムが輸出されていましたが、その見返りとしてヨーロッパからコンゴに送られる商品の量は少なく、その代わりに銃や弾丸が大量に送られていました。
このことから、モレルはコンゴの労働者が過酷な労働条件と暴力にさらされていると結論づけました。
ロジャー・ケースメント(Roger Casement)

英国外務省の役人で、1903年にコンゴ自由国での状況を調査するために送り込まれました。
彼は地元の人々から話を聞き、地元のヨーロッパ人植民者からの報告を収集し、人権侵害と虐待の証拠を集めました。
彼の報告は「ケースメント報告」として知られ、1904年に公表され、大きな衝撃を与えました。
「ケースメント報告」
コンゴ人がゴムや象牙などの商品を収集するために過酷な労働に従事させられ、しばしば飢餓、病気、虐待で死亡したと記録されています。
コンゴ自由国の当局が残虐行為を強制、または黙認している証拠が数多く提出されました。
特に衝撃的だったのは、不十分な生産量を補うために手足を切り落とされるコンゴ人の証言と、その行為の物理的証拠である写真が報告書に含まれていたことです。
これらの証拠はコンゴ自由国の真の性格を暴露し、レオポルド2世の私的統治に対する国際的な非難を引き起こしました。
これを受けて、1908年にベルギー政府はコンゴ自由国を正式に接収し、ベルギー領コンゴと改名しました。
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