モブツ・セセ・セコ(Mobutu Sese Seko)
1930年10月14日にベルギー領コンゴのリサラ生まれ。
本名:ジョゼフ=デジレ・モブツ(Joseph-Désiré Mobutu)
その後、彼自身の「アフリカ化」政策に従い、モブツ・セセ・セコ・コク・ンボゾ・ワ・ザ・バンガと改名しました。
この名前は、コンゴの先住民族であるングンドゥ族の言葉で「全能者、あらゆる動きを制する者、不滅の者」という意味を持ちます。
モブツは若い頃にベルギーの植民地軍であるForce Publiqueに入隊し、軍でキャリアを積みました。
1958年には政治に関与し始め、コンゴ独立後の1960年の混乱の中で軍事的、政治的な力を増していきました。
彼は1965年にクーデターを成功させて政権を掌握し、その後32年間にわたってコンゴ(ザイール)を統治しました。
彼の独裁政権は、人権侵害、経済の衰退、そして広範囲に及ぶ腐敗で有名でした。彼自身は国家の富を私的に蓄積し、海外の銀行口座に数十億ドルを持っていたと推定されています。
1997年には反モブツ派の反乱により政権を追われ、同年9月にモロッコで亡くなりました。
1965年、モブツ・セセ・セコは軍事クーデターを起こし、コンゴ民主共和国の大統領に就任しました。
彼の政権下で、コンゴは厳格な一党制を敷き、自身の権力基盤を固めました。
この期間はしばしば「モブツ主義」または「ザイール化」の時代と呼ばれ、モブツはアフリカ化政策を推進し、欧米の影響を排除しようと試みました。
1971年、モブツは国名をザイール共和国に変更しました。
これは彼のアフリカ化政策の一環で、西洋の名前や風俗を排除し、アフリカの伝統的な価値観や習慣を復活させようとしたものでした。
彼はまた、自身を絶対的な指導者として描き、彼の像を国内の公共の場所に設置し、学校で彼の業績を教えるなど、個人崇拝を推進しました。
モブツ・セセ・セコ政権下での人権侵害は数多く報告されています。
政府は政治的な反対者に対して暴力を行使し、拷問、逮捕、無期懲役、そして時には暗殺を行いました。報道の自由も厳しく制限され、言論、集会の自由はしばしば抑圧されました。
汚職もまたモブツ政権下で顕著でした。
モブツは国家の富を私物化し、その大部分をスイスなどの外国の銀行口座に移動させました。
彼の政権は財産を私有化し、国有企業をモブツの家族や友人に譲渡しました。
このような腐敗は、国家の経済に深刻な打撃を与え、インフレーションを引き起こし、多くの市民を貧困に追い込みました。
経済の衰退は、汚職だけでなく、国家の資源の不適切な管理、教育と保健の不足、そして基礎インフラ(電力、道路、通信)の劣化によるものでした。
モブツ政権下での経済政策は、一部のエリート層の利益を得る一方で、広範な貧困と格差を生み出しました。
さらに、モブツの「アフリカ化」政策は、西洋の影響を排除することを目指しましたが、これはしばしば人々のライフスタイルと自由を制限する形で実施され、多くの人々から反発を引き起こしました。
以上のような要因が相まって、コンゴ(ザイール)は政治的、経済的に不安定な状況が続くこととなりました。
現在では考えられませんが、1971年にモブツが訪日した際には、昭和天皇が羽田空港でお出迎えをしました。
それほど、当時もモブツは権力を持っていて、日本も大切にする人物だったのです。
1980年代後半のモブツの独裁的な統治は、コンゴ(ザイール)は政治的、社会的、経済的に不安定な状態にあり、不満が高まって、国内外の批判を招いていました。
そして、民主化を求める国内の抗議活動やストライキが頻発していました。
さらに、この時期、東西冷戦が終結し、ソビエト連邦が解体しました。
これにより、アメリカや西側諸国は、民主化や人権尊重を求めるようになり、これらの条件を経済援助に結びつける傾向が強まりました。
こうした国内外の圧力の下で、モブツは1990年に複数政党制を導入することを発表しました。
しかし、この政治改革は名目上のものに過ぎず、モブツ自身は権力を手放す意志がなかったため、実質的な改革は進展しませんでした。
その結果、国内の緊張は続き、反政府運動はさらに強まりました。
これらの要素が組み合わさり、1996年から1997年にかけての第一次コンゴ戦争(モブツ政権の崩壊と共和国のコンゴ(旧称:ザイール)への移行をもたらした)へとつながる状況を作り出しました。
第一次コンゴ戦争(1996年~1997年)
アフリカの大地の歴史において重要な出来事で、その結果、モブツ・セセ・セコの長期にわたる支配からコンゴが解放されました。
戦争の開始は、東部のコンゴ(ザイール)での民族間の緊張と、隣国ルワンダの政府と反政府勢力(ハビャリマナ政権と反政府勢力RPF)との間の紛争に起因しています。
ルワンダ内戦の終結と同時に、多くのフツ族(ハビャリマナ政権の民族)がザイールに逃亡しました。
これらの難民の中には、ルワンダ虐殺の実行者であるフツ族の過激派も含まれていました。
これらの過激派はザイールで力を増し、ルワンダの新政府と地元のバヌヤムレンゲ族(主にトゥツィ族)を攻撃しました。
これに対してルワンダ政府は、ザイール東部の反政府勢力であるアフリカン・ラリー・フォー・レジスタンス・アゲインスト・ハザールド(AFDL)を支援しました。
AFDLはローレンス・カビラをリーダーとし、主にトゥツィ族から成る勢力でした。
ルワンダ政府はザイール東部での安定を求めて、この勢力を支援しました。
AFDLは、モブツ政府の腐敗と国内外のモブツに対する不満を利用して、急速に力を増しました。
モブツ政府は疲弊していて、人々の支持を失っていました。また、冷戦終結後、モブツの反共主義者としての価値は低下し、西側諸国からの支援も減少しました。
1997年には、AFDLは首都キンシャサに進撃し、モブツ政権を打倒しました。
これにより、ローレンス・カビラが新たな指導者となり、国名もザイールからコンゴ民主共和国に変更しました。
ローレンス・カビラ(Laurent Kabila)
1939年にコンゴ(当時はベルギー領)で生まれ、学生時代から政治活動に参加し、1960年のコンゴ独立後も反政府活動を続けました。
その後、1965年にモブツ・セセ・セコが権力を握ると、カビラは彼と対立し、長期にわたるゲリラ戦争を戦いました。
第一次コンゴ戦争(1996-1997年)の間、カビラはAFDLを指導し、この勢力がモブツを打倒した1997年にコンゴの新たなリーダーとなりました。
カビラの統治は、反対派の抑圧、人権侵害、汚職により、その後の短い期間で多くの批判を集めました。
また、カビラは戦争中に支援を得ていたルワンダとウガンダとの関係を悪化させ、これが第二次コンゴ戦争(1998-2003年)の一因となりました。
2001年、カビラは自らの護衛によって暗殺されました。彼の死後、息子のジョセフ・カビラが大統領となり、コンゴの指導者となりました。
第二次コンゴ戦争(1998年~2003年)
アフリカ大陸最大規模の戦争として知られています。
そのため、「アフリカの世界大戦」とも呼ばれます。
この戦争は、数百万人の人々が死亡し、非常に多くの人々が国内外に避難する結果となりました。
第二次コンゴ戦争は、ローラン・カビラがラワンダとウガンダからの支援を断ち切ったことで始まりました。
これらの国はカビラを権力の座につけるのに重要な役割を果たしていましたが、カビラが自己の権力を保つために彼らと距離を置こうとしたとき、関係が悪化しました。
1998年、ラワンダとウガンダは反カビラ派の反乱軍を支援し、コンゴ東部を侵略しました。
これに対抗するため、カビラはアンゴラ、ジンバブエ、ナミビアなどの国々から軍事的支援を受けました。
この戦争はコンゴ全土に広がり、多くの勢力が関与する複雑な戦闘に発展しました。その中には、民間人を攻撃し、大量の人権侵害を行ったとされる武装勢力も含まれていました。
2001年にカビラが暗殺され、息子のジョゼフ・カビラが大統領に
ジョゼフ・カビラは講和交渉を積極的に進め、2002年にラワンダと和平協定を結びました。
2002年 プレトリア包括和平合意
第二次コンゴ戦争の終結に向けた主要なステップとなったのが、2002年12月に南アフリカのプレトリアで成立した包括和平合意です。この合意では、全ての戦闘勢力が武装を解除し、共通の政府を形成することを約束しました。
2003年 暫定政権成立(内戦終結)
和平合意の結果、2003年7月にジョゼフ・カビラ大統領の下で暫定政府が設立され、全国的な和平が実現しました。しかし、東部のキヴ州では依然として紛争が続いており、一部では戦闘が再燃することもありました。
2005年 憲法草案に対する国民投票
2005年には新憲法草案が策定され、国民投票にかけられました。この新憲法では、国家の統治形態を大統領制とし、大統領の任期を2期5年とするなどの内容が盛り込まれました。
2006年 新憲法公布、大統領選挙、国民議会選挙
2006年に新憲法が公布され、同年7月には新憲法下での初の大統領選挙と国民議会選挙が実施されました。ジョゼフ・カビラ大統領はこれに勝利し、新政府の大統領となりました。
2011年 大統領選挙、国民議会選挙、ジョゼフ・カビラ大統領再選
2011年にも大統領選挙と国民議会選挙が実施され、ジョゼフ・カビラ大統領は再選を果たしました。
しかし、選挙の公正性については国内外から批判があり、選挙結果は一部で反発を引き起こしました。
ジョゼフ・カビラ大統領の統治期間(2001年から2018年)は、安定の追求と一部の経済改革が進展した一方で、権威主義的な傾向、人権侵害、腐敗、そして国家の統治能力の不足が特徴的でした。
カビラ政権初期は、父のローラン・カビラ大統領の暗殺後、若干29歳で突然権力を継承したジョゼフ・カビラによる国内の安定化と、第二次コンゴ戦争(1998-2003)の終結に向けた努力が行われました。
カビラは戦争を終結させるために和平交渉を行い、2003年には国内の主要な反政府勢力との間で和平協定を結びました。
2006年には、カビラは国の歴史上初の自由選挙で大統領に選ばれ、この時点での彼の統治は一部の国際コミュニティから支持を受けていました。
しかし、その後のカビラの統治期間中には、人権侵害、政治的抑圧、そして広範な腐敗が報告されました。
また、東部のコンゴ地方では、政府の統制が不十分であり、多数の武装集団が活動し、一部の地域では依然として紛争が続いていました。
これらの地域では、人道上の危機、大量の内部避難民、そして性暴力などの深刻な人権侵害が報告されていました。
2018年 大統領選挙、国民議会選挙、州議会議員選挙実施
2018年の選挙は、コンゴ民主共和国で初めて平和的な権力移議が行われたものとして歴史的な意義を持ちます。
カビラ大統領は憲法上の制限から三選を断念し、後継者としてエマニュエル・ラマザニ・シャダリを指名しました。
しかし、選挙はフェリックス・チセケディが勝利しました。
2019年 チセケディ大統領就任
2019年1月にフェリックス・チセケディが大統領に就任しました。
しかし、その選挙結果は一部で異議が申し立てられ、特にカビラ政権との間で密約が結ばれていたという疑念が投げかけられました。
そのため、チセケディ政権初期の統治は政治的な緊張や対立に悩まされることとなりました。
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