コンゴ共和国(Republic of Congo)
【面積】 34.2万平方キロメートル(日本の約0.9倍)
【人口】 583,5万人(2021年、世銀)
【首都】 ブラザビル
【民族】 コンゴ族、テケ族、ンボチ族、サンガ族等
【言語】 フランス語(公用語)、リンガラ語、キトゥバ語
【宗教】 キリスト教、イスラム教
フランス領コンゴ
ピエール・サヴォルニャン・ド・ブラザ(Pierre Savorgnan de Brazza)
彼は1852年にイタリアで生まれ、フランス海軍に入隊し、その後フランス政府のためにアフリカ探検の任務に就きました。
彼は地元の首長たちとの交渉を通じて、この地域におけるフランスの権益を保証する保護条約を結びました。
これにより、これらの地域はフランスの勢力圏となり、フランス領コンゴとして組織化されました。
ブラザの人間性と彼のアフリカの人々に対する比較的友好的な態度は、彼が「善良な植民地主義者」として評価されることもありました。
彼の名前は、コンゴ共和国の首都ブラザビルにちなんで名付けられており、彼の業績を今日でも象徴しています。
1905年にダカールで赤痢のため急死し、国葬の後ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、夫人の手によりアルジェに改葬された。
フランス領コンゴ
フランス領コンゴにおける植民地統治も、地元の人々にとっては困難で苦痛なものであったことは間違いありません。
地元の人々は労働力を強制的に徴収され、新しい経済体制と社会秩序の中で生きることを強いられました。
しかしながら、フランス領コンゴ(下図緑色の部分。オレンジ色はコンゴ民主共和国。)における植民地政策は、少なくとも表面上は、植民地の「文明化」や「開発」を目指していました。
これらの特徴はフランス領コンゴにおけるフランスの統治体制を大まかに描いたもので、具体的な状況は時期や地域によって異なります。
植民地統治の歴史は、その性質上、多くの不平等と不公正、そして悲劇を含んでいるということを理解することが重要です。
フランス領コンゴ(現在のコンゴ共和国)の統治体制は、一般的な植民地行政の形をとっていました。これは中央集権的な行政体制で、フランス政府の指示に従って地元の行政官が統治する形をとりました。
総督と行政官
フランス政府は、植民地総督として任命された行政官を通じて直接統治を行いました。これらの官僚はフランス政府の方針に従い、植民地の行政、法律、財政を管理しました。
地方の伝統的なリーダーシップとの関係
フランスはしばしば地元の伝統的なリーダーと協力し、彼らを行政システムに組み込むことで植民地支配を円滑に進めました。これは「間接統治」と呼ばれ、地元のリーダーを通じて間接的に植民地を統治する方法でした。
植民地法
植民地領域内ではフランスの植民地法が適用され、フランス本国の法律体系とは別に運用されました。これにより、植民地民とフランス市民との間に法的な二元性が生じました。
労働制度
植民地の経済開発のため、地元の人々から強制的に労働力を徴収する制度が存在しました。これはしばしば搾取的であり、人々の生活条件を厳しくした。
経済開発
資源の探査と開発、農業の強化、インフラ(道路や鉄道)の開発などが目指されていました。
しかし、これらの開発活動はしばしば地元の人々から労働力を強制的に徴収する形で進められ、多くの問題を引き起こしました。
経済の変化
伝統的な生計戦略が放棄され、新しい労働形態が導入されました。
一部の人々は新しい経済体制から利益を得ることができましたが、多くの人々は搾取と貧困に直面しました。
社会制度の変化
植民地行政の下で、新しい社会階級が形成され、伝統的な権威が弱体化しました。さらに、教育や宗教の欧化も進められ、コンゴの文化やアイデンティティに大きな変化をもたらしました。
抵抗
このような変化に対しては、多くの形で地元の抵抗が見られました。
これには、労働抵抗、文化的抵抗、そして一部の場合には武力による反乱が含まれていました。
植民地期のフランス領コンゴは、激しい経済的、社会的、文化的変動の時期であり、地元の人々にとって困難な挑戦と機会の両方をもたらしました。
具体的には以下のような特徴があります:
ただし、一般的に言えば、植民地時代のアフリカ全体において、労働の強制、人権侵害、社会的・文化的抑圧など、さまざまな形での虐待や不公正が存在していました。
これらは統治者の国籍や具体的な地域、時期にかかわらず共通しています。
したがって、フランス領コンゴにおける具体的な状況については、より詳細な記録や研究を必要とする一方で、一般的な植民地統治の問題については認識し続けることが重要です。
フランス領コンゴの具体的な状況については、記録が十分に残されていないか、あるいはまだ充分に研究されていないことが一部の原因としてあげられます。
そのため、全体像を正確に把握するのは困難です。
フランスの植民地政策は大きく二つの主要な理論
フランスの植民地政策は大きく二つの主要な理論、「同化政策」および「連邦政策」に基づいています。
フランス領コンゴにおける具体的な植民地政策は、「特許会社」を通じた資源の収奪的な経済開発に重点を置いていました。
「特許会社」は、フランス政府から特許(免許)を受けた私企業で、その免許により特定地域での経済活動(資源の採掘、農業、貿易など)を独占的に行う権利を得ていました。
これらの会社は、現地の労働力を活用して資源を収奪し、それを売却して利益を得ることが主な目的でした。
このような植民地経済の結果、コンゴの地域社会は厳しい生活条件と経済的な苦痛を経験しました。
強制労働、人権侵害、社会的不公正などが一般的でした。さらに、特許会社は本国への利益の還元を最優先し、現地の教育や医療などの社会インフラの開発にはほとんど投資をしませんでした。
一方、フランスの「同化政策」は、植民地住民をフランス人と同等の市民として扱うというものでした。
しかし、この政策は主にフランスの他の植民地で実施され、コンゴではほとんど行われませんでした。
そのため、コンゴの人々はフランスの公民権を得る機会がほとんどありませんでした。
このような政策は1920年代まで続き、その後は植民地行政の中央集権化や現地社会の福祉向上への配慮など、政策の変化が見られました。
しかし、フランスの植民地支配は依然として収奪的な性格を保ち続け、コンゴの社会経済の発展を阻害しました。
アンドレ・マツワ(André Matswa Grenard)
フランス領コンゴ出身の政治活動家で、1901年に生まれ、1942年に亡くなりました。
マツワは、フランス領コンゴのアフリカ人に対する不平等を改善するために活動し、その理念は後のコンゴの独立運動に大きな影響を与えました。
マツワは第一次世界大戦中にフランスに渡り、戦後フランスに留まって働きながら学びました。
彼はフランスの植民地政策と、その中でのアフリカ人の不公平な扱いに強く反対し、これに対抗するために原住民友愛協会を組織しました。
彼の活動は、フランス人と同等の市民権を求めるものであり、これは当時としては非常に先進的なものでした。
しかし、その活動はフランス植民地当局からの弾圧を招き、彼は逮捕されてコンゴに送還され、さらにチャドへと追放されました。
フランス当局は彼の運動を「危険な」ものと見なし、その拡大を防ぐために彼を遠ざける措置をとったのです。
彼が亡くなった後も、彼の理念は「マツワニズム」として広く受け入れられ、コンゴの人々の間で大きな影響力を持ち続けました。
「マツワニズム」は一種の宗教運動として発展し、マツワを聖人のようにあがめるとともに、彼が掲げた平等と自立の理念を引き継ぎました。
「マツワニズム」の主要な内容や理念の一部です
非暴力主義
マツワは非暴力の方法を通じて社会変革を促進することを主張しました。
これは後の独立運動における重要な戦略となりました。
平等と公正
マツワニズムは、すべての人々が平等に扱われ、社会的な公正が達成されるべきだと主張します。
自立
マツワはコンゴ人に自己決定と自立の重要性を教えました。彼は、コンゴ人が自分たちの運命を自分たちでコントロールすべきだと考えていました。
宗教的要素
マツワの死後、彼の信者たちは彼を聖人のように崇めるようになりました。彼らは、マツワが霊的なリーダーであり、彼の教えが神聖なものであると信じていました。
マツワが逮捕されてコンゴに送還され、飛行機から降り立ったマツワの姿は、西洋の装いでカッコよく、コンゴ人は度肝を抜かされたというエピソードがあります。
サプール文化の起源については諸説ありますが、一部の研究者や観察者は、アンドレ・マツワのような早期のアフリカのナショナリストとその影響にその源流を見ています。
彼らは、西洋のファッションとスタイルを採用することで、植民地時代の白人支配者と平等に対峙しようとしました。
彼らは見た目によって地位を示し、コンゴ人が文化的にも経済的にも白人と同等であることを証明しようとしたのです。
マツワが飛行機から降りてきたときの洗練された装いは、この思想の具現化であり、彼の信者たちに影響を与えました。
このエピソードがサプール文化の起源であると言われているのは、そのためです。
アンドレ・マツワは、その生涯を通じて社会的、政治的平等を追求し、その理念と活動はコンゴの独立運動のきっかけとなりました。
1930年代~1960年の独立まで
1930年代には、フランス領コンゴは植民地としての発展を逐次進めていました。
コンゴ・オセアン鉄道の開通は、地域経済の発展に対する重要なステップでした。これにより、首都ブラザビルと外港のポワントノワールとの間の交通が容易になり、地域内の商品の流通が改善しました。
それでも、フランスによる経済的および教育的な開発は、地域の多くの人々にとっては遅く不十分なものです。
多くのアフリカの植民地と同様に、フランス領コンゴでは教育や医療などの基本的な公共サービスが不足し、経済的な可能性が十分に活用されない状況が続いていました。
第二次世界大戦においてフランス領コンゴは、自由フランスの側につき、戦時中の貢献によりフランス政府から一定の政治的な認知を得ました。
これは、戦後のコンゴの政治的な発展に影響を及ぼしました。
1946年にはフランス議会に議席が与えられ、地域の代表がフランスの政治プロセスに参加する機会が与えられました。
同時に赤道アフリカ大評議会と中央コンゴ領域議会が設置され、これにより地元の指導者たちが地域の問題について議論し、解決策を提案する機会を持つようになりました。
これらの開発は、フランス領コンゴにおける自治の増加と政治的参与の拡大を示しています。
1958年の国民投票により、フランス領コンゴはフランス共同体内の自治共和国となりました。
これは、地域の政治的な発展において重要なステップであり、コンゴに一定の自治権をもたらしました。
当時のコンゴの政治は、三つの主要な政党によって支配されていました。
✅ フェリックス・チカヤのコンゴ進歩党(PPC)
✅ ムボチ族を主体とするジャック・オパンゴールのアフリカ人社会主義運動(MSA)
✅ ラリ族を主体とするフルベール・ユールーのアフリカ人利益擁護民主連合(UDDIA)
1957年には、フェリックス・チカヤのコンゴ進歩党は影響力を失い、MSAとUDDIAが二大勢力となります。
1958年の選挙では、UDDIAが勝利し、フルベール・ユールーが自治共和国の首相に選出されました。
親仏派のユールーの首相就任は、フランスからのさらなる自治を推進するという彼の政策を反映したものでした。
フランスからの独立を目指す一方で、フランスとの強いつながりを維持しようとしました。
1960年には、コンゴは正式にフランスから独立し、コンゴ共和国となりました。
1960年独立後~2020年代まで
ユールー大統領政権は次第に腐敗と独裁に陥り、国内の不満が高まっていきました。
ユールー政権の汚職や権力の乱用、そして政策の失敗は、多くの人々に深刻な不満を抱かせました。
1963年8月13日、首都ブラザビルの人々が蜂起し、いわゆる「8月革命」が発生しました。
これは、わずか3日間でユールー政権を打倒し、コンゴの政治的状況を一変させる大規模な反乱でした。
革命後、コンゴは混乱と政治的不安定性に見舞われました。
1963年8月16日に大統領に就任したアルフォンセ・マサンバ=デバは、コンゴを一党社会主義国に転換させる方向に舵を切ります。
彼の政策は、外国企業の国有化、フランス軍基地の撤去、工業化を促進するための「経済開発計画」など、民族民主革命を追求するもので、国家機構の改革を進めるなど、広範な改革を行いました。
しかし、これらの政策は、コンゴの党や軍の下級層から反発を招きます。
この反発は1968年にピークに達し、マリアン・ングアビ大尉によるクーデターが起こり、マサンバ=デバ政権は崩壊しました。
クーデター後、ングアビが大統領に就任しました。
ングアビ大統領は、前任者以上に左派寄りの政策を強化しました。
1969年12月には国名を「コンゴ人民共和国」に改め、一党独裁制を確立するためにコンゴ労働党(PCT)を設立しました。
彼はマルクス=レーニン主義に基づく国造りを推進し、この方針は一部の人々には歓迎されましたが、一方で抵抗や反発も引き起こしました。
1977年3月にングアビ大統領は暗殺され、首謀者とされたマサンバ=デバなど数人の要人が処刑されました。
これ以降、またまたコンゴは混乱と不安定さを経験します。
1977年のマリアン・ングアビ大統領の暗殺後、ジョアキム・ヨンビ=オパンゴが国家元首として権力を握りました。
ヨンビ=オパンゴは元々軍の最高位にいた人物であり、ングアビ大統領の死後に自動的に権力が移った形となります。
しかしヨンビ=オパンゴが権力を保持することは長くなく、彼が党内部や軍内部を完全に掌握することはできませんでした。
党内左派の軍人であるドニ・サスヌゲソとの間で権力闘争が発生し、この闘争に敗れたヨンビ=オパンゴは1979年2月に解任されます。
その後、1979年10月には労働党から追放され、私財を没収されるとともに自宅軟禁に置かれました。
これによりヨンビ=オパンゴの政治的な影響力は大きく低下し、コンゴの政治の舞台から姿を消すこととなりました。
ドニ・サスヌゲソが、ヨンビ=オパンゴの失脚を受けて政権の座に就き、その後のコンゴの政治を牽引することとなります。
彼の政策は一党独裁体制を維持しつつ、社会主義的な国造りを進めるものでした。
しかし、1990年代に入ると民主化の潮流が高まり、サスヌゲソもこれに対応する形で政治体制の改革を進めることとなります。
これは、東ヨーロッパの共産主義国家が民主化に移行したことを受けたもので、この動きは「第三の波」とも呼ばれました。
これに応じて、1991年にはサスヌゲソの役割が儀礼的なものとなり、複数政党制が導入されました。
これと同時に、共産主義が放棄され、国名が「コンゴ共和国」に戻され、国旗も変更されました。
1992年の選挙では、
✅ 北部に基盤を持つサスヌゲソ率いるコンゴ労働党(PCT)
✅ 南部に基盤を持つパスカル・リスバの率いる社会民主主義パン・アフリカン連合(UPADS)
✅ 中部および首都ブラザビルに基盤を持つベルナール・コレラが率いるコンゴ民主統合発展運動(MCDDI)
の3党が有力候補として対決します。
この選挙で、UPADSが勝利し、パスカル・リスバが新たな大統領に就任しました。
しかし、リスバ政権は、貧困、失業、経済の停滞、腐敗など、国内の深刻な問題に対処する必要があり、新しい多党制による政治に挑戦しなければなりませんでした。
リスバ政権の下で、政治的な対立と民族的な緊張が増大し、国内で広範囲な暴力が勃発しました。
各政党はそれぞれ私兵を抱え、彼らは「コブラ」、「ズールー」、「ニンジャ」と呼ばれました。
これらの集団は、しばしば非常に激しい衝突を引き起こしました。
1993年には、リスバが連立相手の民主開発戦線(RDD)のヨンビ=オパンゴ元大統領を首相に任命したことをきっかけに、コンゴ共和国内戦が勃発しました。
1994年には一時的な停戦が成立し、ベルナール・コレラがブラザビル市長に就任しました。
しかし、各党が私兵を維持し続けたため、情勢は依然として不穏でした。
1997年には戦闘が再開し、リスバとサスヌゲソの私兵集団が激しい戦闘と虐殺を繰り広げました。
9月にリスバがコレラを首相に任命し、連携を結んだことで、コレラ率いる「ニンジャ」も戦闘に加わりました。
内戦は最終的にサスヌゲソ派が首都を制圧し、リスバ・コレラ連合を破る形で終結しました。
1999年12月には、停戦合意が成立し、一時的な平和が訪れました。
しかし、この内戦は深刻な人道的危機を引き起こし、経済と社会の破壊をもたらしました。
この時期のコンゴは、政治的不安定性と暴力が日常的であり、国民は生活を営むために困難な状況に直面していました。
政府の機能はほぼ停止し、教育や医療などの基本的な公共サービスの提供が困難になりました。
また、内戦の結果、多くの人々が家を失い、難民となりました。
ドニ・サスヌゲソが再び大統領に就任した後、彼は自身の権力基盤を固め、以後の選挙でも再選を重ねて政権を維持しました。
しかし、私兵集団の武装解除は遅れ、特にニンジャは2003年の和平合意後にコレラの統制下を離れ、フレデリック・ビツァング(通称:ントゥミ牧師)率いるレジスタンス国民会議のもとで武装闘争を継続します。
2016年にも、ニンジャによると見られる襲撃がブラザビルで発生し、5人が死亡するという事態が発生しています。
2017年にはコンゴ共和国で国民議会議員選挙と地方議会議員選挙が行われました。
選挙結果はコンゴ労働党(PCT)とその同盟政党が大勝し、コンゴの議会の大部分を支配しました。
これはサスヌゲソ大統領とその政権の権力基盤をさらに固める結果となりました。
また同年、コンゴ政府とニンジャ民兵グループであるレジスタンス国民会議(CNR)との間で2度目の停戦合意がなされました。
これにより、長年続いた内戦が一時的に収束し、コンゴの政情はやや安定したものとなりました。
その後、2021年に大統領選挙が行われ、サスヌゲソ大統領は3期目の大統領に選出されました。
サスヌゲソ大統領の3選は、彼が2015年に憲法を改正し、大統領の任期制限を撤廃したことにより可能となったものです。
この憲法改正は国内外から批判を受けましたが、それにもかかわらず彼は強行し、再選を果たします。
しかし、選挙過程には不正投票や不平等な選挙活動の疑惑が浮上し、一部の野党や市民団体から批判の声が上がりました。
その結果、サスヌゲソは長期間にわたりコンゴの政治を主導することとなりました。
コメント