ヒップホップの国歌(アンセム)
Incredible Bongo Bandの1973年リリース曲「Apache」
インクレディブル・ボンゴ・バンドは、MGM RecordsのプロデューサーMichael Vinerが、低予算のB級映画『The Thing with Two Heads』のサントラ用に、スタジオの空き時間にヒマそうなミュージシャンを見つけて録音を重ねて作ったもので、架空のユニットです。
数年後にDJクール・ハークが「Apache」を取り上げられた以降、他の曲も次々とサンプリングされるようになり、DJやロック界でも注目されるようになっていきました。
アフリカン・バンバータが、この楽曲を「ヒップホップ界の国歌だ」と発言したことが起点となりました。
ヒップホップ(ラップ)の最初のヒット曲
The Sugarhill Gang – Rapper’s Delight
シルヴィア・ロビンソン(Sylvia Robinson)が「誰か、ラップできる子はいない?」「ラップできる知り合いいない?」といった安易な考えで、即席で3人を集めてグループを結成させます。
それがシュガーヒル・ギャング(The Sugarhill Gang)です。
この楽曲は、当時大ヒットしていたシックの”Good Times”のパクリです。リリックもコールドクラッシュ・ブラザースのグランドマスター・カズのリリック帳(ネタ帳)からパクってきたものだそうです。後にシルビア・ロビンソンは、シックの”Good Times”を無断使用したとして訴えられました。
初期のラップ曲
The Fatback Band – King Tim III (Personality Jock)
ラップをフューチャーした楽曲で初めてのチャート首位
Blondie – Rapture
1980年:ブロンディ5枚目のアルバム『Autoamerican)』からシングル・カットされた「 Rapture」は、ラップをフィーチャーしてチャートの首位に立った最初の楽曲。ヒップホップの先駆者である「ファブ・ファイブ・フレディー」と「グランドマスター・フラッシュ」の名が、歌詞に盛り込まれています。
ラップで初めてゴールドディスク獲得
Kurtis Blow-The Breaks
1979年:カーティス・ブロウの最初のシングル『Christmas Rappin’』がラップの曲としてメジャーレーベルからリリース(マーキュリーのイギリスのロンドン・オフィスと契約していたから最初の輸入盤) 1980年:『The Breaks』は、ラップで初めてのゴールドディスク獲得。商業的に成功した初ソロラッパー。
メッセージ性の最初の『コンシャス・ラップ』
Grandmaster Flash & The Furious Five – The Message
『The Message』は、タイトルの通りメッセージ性が強い楽曲で、黒人たちのゲットーの生活を歌い「これでいいのか」と問う内容。こうしたメッセージ性の強いスタイルを『コンシャス・ラップ』とも言われています。
この楽曲を皮切りに主張性を追求する曲が増え始めていきました。「ヒップホップのひな形が出来上がった楽曲」と言えます。ラップは「ストーリーテリング(Storytelling)=物語や体験を伝える」役割を果たすようになっていきます。
ジャンルにとらわれないファンクネス
Afrika Bambaataa & The Soulsonic Force – Planet Rock
1982年:アフリカ・バンバータは、「ズールー・ネイション」を、世界各地で活動する「ユニバーサル・ズールー・ネイション」と改名し、アメリカ国外でのツアーを行い、ヒップホップの文化や価値を海外へ広めていました。同年に歴史的傑作「Planet Rock」をリリースします。
クラフトワークの「Trans-Europe Express」のメロディと、「Numbers」のビートをサンプリングして作ったというこの楽曲で、様々なジャンルのアーティストに影響を与えます。
ブレイクダンスを世界に知らしめた映画
Flashdance – Final Dance / What A Feeling
Wild style DoubleTrouble/Rammellzee/Shockdell/Rock Steady Crew
スクラッチを世間に知らしめた楽曲
Herbie Hancock – Rockit
RUN-DMCデビュー
RUN DMC, Jason Nevins – It’s Like That
ニューヨークのアンダーグラウンド界隈では、Bボーイ&Bガールの間でスポーツブランド『adidas』『puma』がストリートファッションのアイテムとして定着し始めていました。
Run-D.M.C.は【『adidas』のトラックスーツとSUPERSTARそしてカンゴール・ハット】でステージに登場。そこまでのヒップホップ(ラップ)は突如として旧式スタイル『オールド・スクール・ヒップホップ』というジャンルになります。
Run-D.M.C.は、当時のヒップホップとは大きく違っていたことは、ロックやヘヴィ・メタルの影響を受けたサウンドを持ち、そのスタイルは「ストリート・ロック」と呼ばれました。
彼らの音楽は、アフリカ系アメリカ人の若者たちだけでなく、白人の若者たちからも支持を受け、全米のチャートで大きな成功を収めていきました。
Def Jam Recordings
LL COOL J – I NEED A BEAT
【第1弾アーティスト:当時16歳のLLクールJ】
『I need a Beat』でデビュー。(LLクールJの由来は「Ladies Love Cool James」の略)1985年:ファースト・アルバム『Radio』はプラチナディスク獲得。女性からの人気がめちゃくちゃ高く、最初にラブソング・ラップを歌ったと言われています。
Beastie Boys – Licensed To Ill
パーカーを着て野球帽を被ってスニーカーを履くストリートファッションの基盤を作ったビースティ・ボーイズ。
アフリカ系アメリカ人が独占するヒップホップ・カルチャーで成功を収めた初の白人ラップ・グループ。元々はハードコア・パンク・バンドであった彼らは、ヒップホップへ完全移行。「ポロシャツやパーカーでOK」という感じで、ヒップホップの裾野を広げました。
ヒップホップが大御所を救う
Unity – James Brown & Afrika Bambaataa
『Mr.Dynamite』 『God Father of Soul』 『Funky President』など様々な呼び名で讃えられるジェームス・ブラウン。1970年代は『ディスコ・ミュージック』全盛期で、このブームに完全に乗り遅れてしまったJBは、「出口がまるで見えなかった」と後年インタビューで語っているほどの低迷期でした。
JBは、1980年映画『ブルース・ブラザース』に牧師役で出演。
この映画の大ヒットでR&Bブームが起こり、JBは復活に向けての手ごたえをつかみます。
1984年に『Unity – James Brown & Afrika Bambaataa』のシングルとMVが出て大ヒットします。その後JBは、1985年『ロッキー4/炎の友情(Rocky IV)』に出演。1986年『Living In America』が久々の大ヒットで完全復活。
世界で最もサンプリングされたミュージシャンは ジェームス・ブラウン
JBは【ヒップホップの立役者】で彼が存在していなかったら【ヒップホップ】も存在していなかったかもしれません。
『Funky Drummer』を知らないB-Boy B-Girlはモグリです(笑)
RUN DMC – Walk This Way
70年代半ばに絶頂期を迎えていたエアロスミス(Aerosmith)でしたが、ドラッグなどの影響でバンドが崩壊して10年近い低迷期を過ごして、80年代前半には、エアロスミスは「忘れられたロックバンド」になっていました。
1975年リリースのエアロスミス3rdアルバム『Toys in the Attic』収録曲♬Walk This Way♬は、ブロンクス地区のブロック・パーティーでは定番曲でした。
Run-D.M.C.は、♬Walk This Way♬のリフをサンプルして独自の曲を作ろうと思っていた矢先に、Def jamのリック・ルービンから「Walk This Wayのオリジナル歌詞と同じリリックでカバーをしたら面白いのでないかな?」と提案されます。
「いやいや、さすがにロックとラップの融合みたいなのやりすぎだよ!」と最初は難色を示したRun-D.M.C.でしたが、リック・ルービンのアレンジで、エアロスミスの2人(スティーヴン・タイラーとジョー・ペリー)にもレコーディングに参加してもらうことになりました。
1986年:結果的に『ロックとヒップホップを初めて融合させた歴史的な共演』となり全米4位の大ヒット。MTVでこのMVが取り上げられたことで、ヒップホップ・ファンにエアロスミスが知れ、ロック・ファンにヒップホップが知れ渡ることになりました。
これをキッカケにエアロスミスの奇跡の復活劇が始まりました。
実はRun-D.M.Cのメンバーはエアロスミスのことを殆ど知らなかったそうです。
ヒップホップ市場№1ラッパー登場
Walk This Wayのヒット後のRun-DMCが「ライムが現れた時に、自分たちの時代が終わった」と言わしめたほどのスキルをもったラッパー「Eric B & Rakim」
ギャングスタ・ラップの始祖
Schoolly D – P.S.K. ‘What Does It Mean’?
「ニューヨーク以外のラッパーは偽物」と言われて1985年にフィラデルフィアからスクーリー・Dが「P.S.K What Does It Mean?」をリリース。
この楽曲が最初のギャングタ・ラップと言われています。
「P.S.K What Does It Mean?」に影響を受けたIce-Tが「6 in the morning」をリリースしてLAでもギャングスタ・ラップが始まります。
Ice T – 6 ‘N the Mornin’
トラックメイカーのパイオニア
マーリー・マール(Marley Marl)
サンプラー”E-mu SP-1200″を使用したトラック制作の手法(サンプリング・ループ等)を、次世代のアーティストに定着させた人物。
ロクサーヌ・シャンテ(Roxanne Shanté)が、UTFOの最新ヒット『ロクサーヌ、ロクサーヌ』に答える曲としての『ロクサーヌ・リベンジ』という曲をプロデュースしてヒットさせた。
Roxanne Shante – Roxanne’s Revenge
UTFOに対して挑戦的で、ちょっとした物議を醸したこの曲によって彼女は一躍ヒップホップ界の注目の的となり、「ロクサーヌ戦争」と呼ばれるラップを通じた対立が巻き起こった。
UTFO – Roxanne, Roxanne
その後、ビッグ・ダディ・ケイン、ビズ・マーキー、クールGラップ&DJポロ、マスタ・エース、ロクサーヌ・シャンテ、MCシャンらを率いてジュース・クルーを結成し、多くの楽曲をプロデュース。
ブリッジ・バトル
1986年:MC Shanが「The Bridge」という楽曲で「ヒップホップはクイーンズが発祥の地」と主張しました。(プロデューサー=マーリー・マール)
MC Shan – The Bridge
これに対してKRS-Oneが「そんなラップサウスブロンクスに持ち込んだら生きて帰れると思うなよ」と反論してビーフが勃発します。
KRS-One – South Bronx
これにMCシャンは『Kill That Noise』にて応戦
MC Shan – Kill That Noise
これにKRS-Oneは『The Bridge Is Over』でやり返す
BDP – The Bridge Is Over
この対立によって両地元のラジオ局(ブロンクスWBLS・クイーンズKISS-FM)は互いのグループの楽曲を放送禁止にするまでに及んだ
この両グループの対立は「ブリッジ・バトル」としてヒップホップ史にも大きく刻まれた出来事
このビーフによってアーティストが地元を主張するスタイルが定着したと言われてる
悲劇:スコット・ラ・ロックの死
BDP(Boogie Down Productions)を結成したKRS-ONEとスコット・ラ・ロックは運命的な出会いをする
KRS‐ONEは16歳で家出をしてストリートで暮らすホームレス
ギャングがバックボーンの「ユナイテッド・アーツ」というグラフティー・クルーに加入~マリファナを運ぶ最中に捕まり服役
出所後のホームレス向けの更正施設でカウンセラーとして働いていたのがスコット・ラ・ロック
この出会いでBDPは結成された
1987年8月25日
BDPのDJとして活動していた Dナイス の彼女の元彼氏(薬の売人)とトラブルに巻き込まれ、BDPメンバーで争いを止める目的で元彼氏の地元に入ったところ スコット・ラ・ロックは銃弾に倒れ他界(この事件の殺人犯として検挙された人はいないらしい)
By All Means Necessary / Boogie Down Productions
スコット・ラ・ロックがこの世を去った後に発表されたBDPのセカンド・アルバム(ジャケットは有名なマルコムXのパロディ)ゴールド・ディスク獲得
【ストップ・ザ・バイオレンス運動(暴力廃絶運動)】
スコット・ラ・ロックの他界後、KRS-ONEは自らを “ザ・ティーチャー”と称し【ストップ・ザ・バイオレンス運動(暴力廃絶運動)】の発起人となり40都市の大学を回る講義ツアーを行った
1989年にオール・スターによるシングル『Self Dest-ruction』をリリース
チャックD、クール・モーディー、MCライト、Heavy Dなどなど参加
ナショナル・アーバン・リーグのために約40万ドルの寄付金を集めた
世界で最も危険なグループ:N.W.A
1980年代中頃
ドクター・ドレとDJイエラはクラブDJで名前も売れていていました
そこにギャング育ちのイージー・Eがつるむようになり
アイス・キューブそしてMCレンが加わり
N.W.Aが結成されました
1987年11月6日
プリオリティ・レコードからファースト・コンピレーション・アルバムをリリース
N.W.A and the Posse / N.W.A
1988年8月8日
N.W.Aのギャングスタ・ラップが爆発した「とんでもないアルバム」をリリース
Straight Outta Compton / N.W.A
アメリカでは彼らの暴力的な歌詞を真に受けた者も多く現れ社会問題に発展
代表曲『Fuk Da Police』はFBIから警告が届いたほど過激な歌詞
日本語版CDでは、歌詞は過激で放送コードに抵触したものが多く、対訳はもとより原詞も割愛されている
彼らにとっては日常のことをラップしただけなので「リアリティ・ラップ」と呼んでいました
ゲトーの黒人からは絶大な支持を得たのですが 当時の副大統領が「N.W.Aのラップは危険なので聴くな」とラジオで発表したこともあって、白人社会においては「ギャングス・ラップは危険でやばい」と悪いイメージになっていきました。
ギャングスタ・ラップ初の全米1位アルバム
1989年にN.W.Aのメイン・ラッパーのアイス・キューブが、売上金の着服疑惑などメンバー同士の確執が生まれ脱退します。
(1990年:ソロ・アルバム『AmeriKKKa’s Most Wanted』をリリース)
1991年5月28日N.W.Aがアルバム『Niggaz4Life』をリリース
ビルボード・アルバム・チャートで第1位を獲得
1992年にドクター・ドレーが脱退してN.W.A解散
ニューヨーク・ロングアイラン出身のパブリック・エネミー
パブリック・エネミー(Public Enemy)
1987年アルバム『Yo!Bum Rush the Show』でデビュー
ラジオで放送するには乱暴過ぎると言われたにも関わらず大ヒット
「ラップはブラック・アメリカンにとってのCNNだ」
1989年6月4日:世界中に影響を与えることになる楽曲『Fight the Power』をリリースします。(後にスパイク・リー監督映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』のテーマ曲になります。)
1990年に3rdアルバム『Fear of a Black Planet』には、救急車が黒人地区においては、白人地区よりも遅く到着することを批判した楽曲『”911 is a Joke”』などの名曲が収録されています。
ネイティブ・タン(Native Tongues)
1989年
ヒップホップ界に『ネイティブ・タン(Native Tongues)』というギャング的なものではなく、組織でもない 意気投合したヒップホップのグループ同士が集まったトライブ(部族)が新たなヒップホップをもたらしました
<中核となるグループ>
● ジャングル・ブラザーズ(Jungle Brothers)
● デ・ラ・ソウル(De La SOUL)
● ア・トライブ・コールド・クエスト(A Tribe Called Quest)
従来からのヒップホップ・アーティストと違い
✅ 中流階級出身で見た目に「いかつさ」が無い
✅ 首には太いゴールドチェーンも無く、ごつい指輪も無い
✅ ラップは会話形式でスラングを使わないユーモアのあるもの
✅ ポップ感覚もあって聴きやすい
ジャングル・ブラザーズのアフリカ・ベイビー・バムが
ファースト・アルバム『Straight Out The Jungle』リリース後にグループ同士の提携を提案
デ・ラ・ソウル(De La SOUL)
『ネイティブ・タン』としての最初のアルバム
3 Feet High & Rising / De La Soul
スティーリー・ダンの『Peg』をサンプリングするなど、「何をネタにしてもいいんだ」という革命を起こした
メロディアスな音楽によってヒップホップファン以外の一般人にも大いに受け入れられた
ジャングル・ブラザーズ(Jungle Brothers)
『ネイティブ・タン』としての2枚目のアルバム
Done By the Forces of Nature / Jungle Brothers
1:16~日本語が聴こえます
ア・トライブ・コールド・クエスト(A Tribe Called Quest)
『ネイティブ・タン』としての3枚目のアルバム
People’s Instinctive Travels and the Paths of Rhythm / A Tribe Called Quest
『Footprints』はStevie Wonder『Sir Duke』Donald Byrd『Think Twice』をサンプリング
本作の特徴は何といってもそのサンプリングソースの多彩さ
ジャズの要素を絡めた作品でヒップホップの歴史において重要アルバム
ブラック・シープ(Black Sheep)
1991年シングル「Flavor of the Month」及びデビューアルバム『A Wolf In Sheep’s Clothing』をリリースした
A Wolf In Sheep’s Clothing/Black Sheep
ギャングスタ・ラップが各地へ伝染
LAそしてニューヨークのゲトーの現実の厳しさは、ギャングスタ・ラップによって表面化していき、アメリカの他地域にも伝染していきます。
ニューオーリンズ
サザン・ヒップホップ(ダーティ・サウス)の元祖:マスター・P
1991年:ファースト・アルバム『Get Away Clean』リリース
LAサウンドに影響を受けた分かりやすいサビ&コールが特徴
マイアミ
1989年に下ネタ連発のラップでアルバム『As Nasty As They Wanna Be』が大ヒットした2Live Crew。2Live Crewのメンバーが「猥褻罪」で逮捕されたこともあり、彼らのアルバム曲は猥褻物と見なして規制され、彼らのアルバムをレコード店で販売した店員は次々と検挙され逮捕されました。しかし、こんな事件によって2Live Crewの知名度が上がり人気急上昇します。
テキサス
1981年にGhetto Boys(ゲットー・ボーイズ)として結成。1989年からリック・ルービンをプロデューサーに迎えアルバム『Grip It! On That Other Level』をリリース。
1991年にメンバーの一人であるブッシュウィックが彼女に拳銃で右目を撃たれて、病院に担ぎ込まれた時の写真をアルバム・ジャケットに使用した『We Can’t Be Stopped』は伝説と語り継がれています。
カントリー・ラップの先駆者:UGKが1992年:メジャーレーベルからデビュー・アルバム『Too Hard to Swallow』をリリース
コメント